長寿院盛淳(ちょうじゅいん・もりあつ) ?〜1600

島津氏重臣。出自は畠山氏で、畠山頼国の子と伝わる。姓を阿多とも称す。大隅国蒲生地頭。鹿児島安養院住持。
幼少より出家し、薩摩国の大乗院盛久の弟子となる。壮年時に紀伊国根来山で8年間の勤行を遂げ、高野山の僧・木食応其(木食上人・興山上人)に3年間師事した。のち、薩摩国安養院の住持となる。
天正14年(1586)9月に島津義久の側近となり、羽柴秀吉との折衝にあたった。天正15年(1587)の九州征伐の敗北によって島津氏が豊臣政権に従属したのちは渉外役として重用された。
天正16年(1586)に義久の家老となる。
文禄3年(1594)の島津氏領国における太閤検地に際しては、島津方の奉行として石田三成伊集院忠棟と共に尽力し、豊臣政権に反感を示す家中の反発を身に浴びながらもこれを無事に完遂させた。
文禄4年(1595)12月頃、島津義弘に付されてその家老となる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては、在京していた義弘の要請に応じて大隅国より軍勢を率いて出立し、関ヶ原の合戦直前の9月13日に美濃国大垣で義弘と合流。このとき、石田三成から軍配と団扇を贈られて謝意を示されている。
この2日後の関ヶ原の合戦では義弘が敵中突破(関ヶ原撤退戦)を敢行する際、影武者として本多忠勝らの隊に斬り込んで戦い、壮烈な討死を遂げた。