羽柴秀勝(はしば・ひでかつ) 1568〜1585

織田信長の子。一般的には四男とされているが、五男や末子とする史料もある。幼名を於次。天正4年(1576)頃に羽柴秀吉の養子となったとされる。
天正10年(1582)3月、秀吉の中国経略に従っての備前国鹿島(児島)城攻めが初陣。
続く備中国高松城の戦い山崎の合戦にも加わっている。
清洲会議ののち、秀吉と不仲であった越前国の領主・柴田勝家は、尾張国から帰国するにあたって、秀吉の襲撃を警戒した(秀吉の所領は北近江)。そこで秀吉は秀勝を人質として出し、通交の安全を保証したという。秀勝は、勝家が秀吉の所領を越えたのちに解放されている。
清洲会議で取り決められた信長の遺領分配において、明智光秀の旧領である丹波国を与えられ、丹波亀山城主となった。
同年9月12日に京都柴野大徳寺で実父・信長の百日忌を行い、10月15日に大徳寺で執行された葬儀には喪主として参列した。しかしこの法要の実際は、秀吉が自分の威勢を見せるために手配したものだといわれ、秀勝は名目上の喪主にすぎなかったとされる。
またこの年、従五位・丹波守に叙任。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦にも秀吉方として参戦。しかしこの小牧・長久手の合戦の最中の5月、陣中において発病し、丹波国に帰国する。
天正13年(1585)7月、従三位左近衛権少将となり、まもなく正三位権中納言に叙せられた。
しかし病状は好転することなく、同年12月10日に丹波亀山城にて病死した。18歳。