堀親良(ほり・ちかよし) 1580〜1637

堀秀政の二男。堀秀治の弟。通称は弥太郎。名を秀家・秀成とも。従五位下・美作守。妻は浅野長政の娘。
天正18年(1590)5月に父・秀政が小田原征伐の陣中で没したのち、その遺領から越前国のうちで2万石を相続した。
天正19年(1591)1月24日、羽柴姓と秀吉の一字を与えられて秀家と名乗るが、のちに宇喜多秀家の諱を避けて親良と改名する。
文禄3年(1594)には肥前国名護屋城、京都伏見城の工事を分担。
慶長3年(1598)4月、兄・秀治が越後国に45万石の加増転封の沙汰を受けると秀治に従って越後国に移住、蔵王堂城主として4万石を分与された。同年8月の秀吉の没後には遺物として助真の刀を受領している。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては秀治と同じく東軍に属し、西軍勢力の上杉氏に応じて蜂起した一揆と越後国下田で戦って功績があり、所領を安堵された。
慶長7年(1602)に惣領家の重臣・堀直政と不和になると、病を理由として秀治の二男・鶴千代を養嗣子として所領を譲って隠退し、かつて秀政の使っていた伏見旧邸に移住したが、慶長11年(1606)に現役復帰を徳川家康に申し入れ、家康の意向を受けて将軍・徳川秀忠に近仕した。この際、それまで領有していた隠居料と同等の1万2千石を与えられ、隠居料は鶴千代に返却している。
慶長16年(1611)、下野国真岡城に移住し、1万2千石を与えられる。
慶長年間末期の大坂冬の陣夏の陣にも従軍。
元和2年(1616)には日光山廟造営に参画、他にも普請事業や秀忠の上洛に供奉するなど外様大名ながらも重く用いられ、元和4年(1618)に美濃国山県郡において5千石の加増を受ける。
寛永4年(1627)3月、8千石を加えられて2万5千石で下野国烏山城主となる。
寛永14年(1637)5月13日死去。58歳。法名は東江寺梅也宗月大居士。