生駒親正(いこま・ちかまさ) 1526〜1603

美濃国可児郡土田村の出身。生駒親重の子。通称は甚助。初名を正成。のち、近世・近規・近親と改める。雅楽頭・従五位下・左近大夫。
永禄9年(1566)より織田信長に仕えて、のちに羽柴秀吉麾下として立身した。天正3年(1575)の長篠(設楽ヶ原)の合戦、天正5年(1577)の美作国七条城攻め、石山合戦雑賀征伐などに従軍している。
天正10年(1582)6月の本能寺の変以降も羽柴秀吉に属し、同年の山崎の合戦、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦、天正12年(1584)には小牧・長久手の合戦や和泉国和田一揆鎮定、天正18年(1590)の小田原征伐などに参陣。
これらの功により従五位下・雅楽頭となり、知行2千石より始まって天正13年(1585)6月には近江国高島郡2万石、天正14年(1586)には伊勢国神戸城主4万1千石を加増、播磨国赤穂6万石、ついで讃岐一国の領主として讃岐国高松城主17万石と、目ざましい累進を見せた。
文禄の役に際しては、軍勢を率いて渡海した。
秀吉の死没前後には堀尾吉晴中村一氏と共に、豊臣氏の重鎮(いわゆる三中老)として重きをなした。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では西軍に応じたことにより、戦後に山城国槇尾に閉居された。親正の子・一正は東軍について軍功があったため、讃岐国を拝領することになる。
のちに許されて一正のもとに赴き、高松で慶長8年(1603)2月13日に没した。78歳。法号は海依弘憲。