稲葉貞通(いなば・さだみち) 1546〜1603

稲葉一鉄の嫡子。母は三条西公条の女。通称は彦六。従五位下・右京亮・侍従。
父とともに、はじめ美濃国斎藤氏、ついで尾張国の織田信長に仕え、各地に従軍した。
天正7年(1579)に家督を譲られ、美濃国曾根城主となる。
天正10年(1582)6月、本能寺の変の際は京都にいたが美濃国に帰還し、のちに羽柴秀吉に属した。この年、家督を子の典通に譲る。
天正11年(1583)、秀吉による伊勢国嶺城攻めに従軍。この帰路において一揆に襲われて壊滅の危機に瀕したが、貞通は子の典通を先に逃がし、自ら殿軍を務めて3回に亘って一揆勢を追い散らす武勇を見せた。
天正15年(1587)の九州征伐に出陣。この九州征伐には典通とともに赴いたが、典通が秀吉の機嫌を損ねて蟄居を命じられたため、再び家督についた。
この年の冬に従五位下・侍従に叙任、羽柴曾根侍従と称される。
天正16年(1588)4月、後陽成天皇の聚楽第行幸のときに供奉している。
天正18年(1590)(天正16年との説もある)、郡上郡八幡城に移り、羽柴郡上侍従と呼ばれた。
同年の小田原征伐にも1千2百余の兵を率いて従軍、天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役においては朝鮮半島に渡海して転戦した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役において、はじめは弟・方通より東軍陣営に属すように勧められたがこれを容れず、尾張国犬山城の石川貞清を援けて犬山城に籠もった。しかし8月に西軍の織田秀信の拠る美濃国岐阜城が陥落すると降伏し、徳川家康に通じた。はじめは家康に信用されなかったが、伊勢国長島の攻略戦に加勢してようやく認められた。こののち近江国水口城を攻めたときにも奮戦し、一番乗りの功名を上げている。
関ヶ原の役後、徳川氏重臣・井伊直政の尽力によって同年12月に豊後国海部・大野・大分の3郡のうちで5万石を与えられて臼杵城主となった。
慶長8年(1603)9月3日、京都妙心寺智勝院で死去した。享年58。法号は一等玄規智勝院。