上杉家臣。揚北衆。色部勝長の子。色部顕長の弟。通称は惣七郎。後年、名を惣八郎長真と改める。妻は新発田重家の妹。従五位下・修理大夫。
永禄9年(1566)、兄・顕長より長実の名を与えられた。
天正4年(1576)頃に顕長より家督を譲られ、越後国岩船郡小泉荘平林城主となる。
天正6年(1578)3月の上杉謙信没後に起こった御館の乱に際しては本荘繁長の口入で上杉景勝方に与し、その後も景勝に従って越中国や新発田重家の乱鎮定に功績を挙げた。この乱後には長松寺において義兄にあたる重家の供養を行っている。また、この間の天正15年(1587)9月には兄の顕長を亡くし、名実共に色部氏惣領となった。
天正16年(1588)4月に景勝の供として上洛して従五位下・修理大夫に任じられ、8月には直江兼続・須田満親と共に羽柴秀吉から豊臣姓を名乗ることを許された。
天正18年(1590)の出羽国の仙北地方で起こった一揆の平定には大谷吉継に属して戦い、一揆の鎮圧後は景勝の代官として大森城に在って仙北地方の統治にあたった。
天正19年(1591)の春頃に仙北での任務を終えて帰国。翌文禄元年(1592)よりの文禄の役に従軍して渡海したが、病に罹ったため帰国を許されて京都で療養するも、9月10日に同地で死去した。法名は高曹院殿重山善慶大居士。