三村親成(みむら・ちかしげ) ?〜?

三村宗親の二男。三村家親の弟。通称は孫兵衛。紀伊守。
永禄9年(1566)、兄・家親に従って美作国に侵攻したが、家親が2月5日に宇喜多直家の放った刺客によって殺されると、軍勢をまとめて三村氏本拠の備中国成羽に退陣した。のち、家中が即座に弔い合戦に臨むか否かで分裂した際には、しばらく時を待って家親遺児の元親・実親兄弟が成長した暁に一戦を遂げるべし、と主張している。
三村氏は翌年の明禅寺合戦で宇喜多氏と戦って大敗を喫したことによって勢威が衰退するが、三村氏本宗の元親は備中国成羽の鶴首(かくしゅ)城を本拠として勢力の回復を図り、元亀元年(1570)に松山城を奪還しているが、宇喜多氏が毛利氏と結んで東西から牽制したため、元親は織田信長の支援を得て対抗しようとした。しかし親成はこれに同意せず、毛利氏との友好関係を再構築することを進言したが容れられなかったため、天正2年(1574)11月に成羽を脱し、毛利氏の保護下にあって備後国の鞆(とも)にいた足利義昭にこの間の経過を報告した。ここに三村氏は分裂するに至る。
この後、毛利氏が三村元親討伐に取り掛かると、親成はその先鋒となって備中国を転戦(備中大兵乱)。翌天正3年(1575)5月下旬に松山城が陥落して元親が自刃すると、親成は毛利方の案内役を務めた功績によって鶴首城主となった。
以後は毛利氏に属して上月城の戦い高松城の戦い九州征伐慶長の役などに従軍。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役の後は毛利氏より離れたが、備後国福山城主となった水野勝成に招かれてその重臣となった。