山内上杉憲顕の重臣。長尾景為の子。通称は四郎。左衛門尉。関東長尾氏の祖。
南北朝の動乱期には足利尊氏の命を受けて憲顕に属して越後国に進撃、各地で新田義貞方の池・小国・風間氏らと戦った。さらには憲顕の名代として庄田勢を率いて越中国宮崎城を攻め、勝利している。
上杉憲顕が征夷大将軍に就任した尊氏より暦応4:興国2年(1341)12月に越後守護に任じられると、景忠も功によって越後守護代となり、憲顕の領国経営を援けた。その就任時期は不詳であるが、康永3:興国5年(1344)5月2日付の打渡状があることから、それ以前には守護代の地位に在ったと思われる。
観応元:正平5年(1350)12月に勃発した足利尊氏・直義兄弟の分裂抗争(観応の擾乱)において、憲顕に従って直義党に属したため失脚したが、のちに復権した憲顕が貞治2:正平18年(1363)に関東管領ならびに上野守護に補任されると景忠も上野守護代に任じられ、憲顕に従って関東に赴き、上野国白井城主となった。
復権を果たした憲顕は越後守護にも再任されているが、越後守護代には景忠の弟・長尾景恒が任じられ、この景恒が越後国長尾氏の祖となる。景忠の子孫は関東に繁栄し、足利長尾氏・白井長尾氏・総社長尾氏などが派生している。
生没年不詳。法名は教阿。