長尾景恒(ながお・かげつね) ?〜1367?

関東長尾氏の祖となった長尾景忠の弟。弾正左衛門尉。
兄・景忠の譲りを受けて越後守護代となり、越後国長尾氏の祖となった。
観応元:正平5年(1350)より始まる足利尊氏直義兄弟の分裂抗争(観応の擾乱)に際しては、子・長尾高景と共に、直義党に属した上杉憲顕に従って尊氏勢と各地で戦い、観応3(=文和元):正平7年(1352)2月の直義没後も直義党の立場を崩さなかった憲顕に従って観応3:正平7年(1352)の新田義興義宗兄弟による鎌倉攻め(武蔵野合戦)に加わるも、敗れて越後国に逃れた。
その後は憲顕と同様に隠棲していたと思われるが、憲顕は2代将軍・足利義詮から貞治元:正平17年(1362)に越後守護に、その翌年3月には関東管領に再任されており、この憲顕復権と共に景恒も復帰を果たしたとみられる。
貞治6:正平22年(1367)12月21日死去か。法名は春阿。
嫡子の新左衛門尉は越後国蒲原郡の代官(郡代)となり、二男の景春は越後国古志郡蔵王堂城に拠って古志長尾氏(のち栖吉長尾氏)を称す。三男の高景は新左衛門尉の死後に蒲原代官を継承し、蒲原郡三条城を根拠地として守護代となった。また、新左衛門尉の後裔からは上田長尾氏が派生している。