中山田泰吉(なかやまだ・やすよし) 1541〜1613

長宗我部家臣。香宗我部秀通の長男。母は細川定輔(宗桃)の娘。左衛門佐。妻は土佐国司・一条兼定の養女。
父・秀通はその兄である香宗我部親秀より家督を譲られていたが、親秀は天文15年(1546)に長宗我部国親に帰順するためにその三男・親泰を養嗣子とすることを企図。これに反発した秀通が弘治2年(1556)10月に誅殺されたのち、弟の秀政と共に親秀に引き取られて養育された。
長じて中山田泰吉と名乗り、香宗我部氏の家督を継承した香宗我部親泰に仕える。中山田の姓は親秀の隠居地である中山田村によるものである。
香宗我部氏の本貫地は土佐国香美郡香宗城であるが、親泰はその兄・長宗我部元親に従って各地を転戦していたことから、泰吉が香宗城代として留守を守った。
その人となりは、寡言で礼儀正しく、儒学・芸能・武事に優れて文武両道の武士と称され、信賞必罰を旨としたので人々から敬愛され、親泰からの信任も厚かったという。
文禄2年(1593)12月に親泰が病死したのち、香宗我部氏の家督は親泰の末子・貞親が継承するが、泰吉は秀政と共に貞親を後見し、長宗我部・香宗我部両氏の存続と発展に尽力した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役において西軍に与した主家の長宗我部氏が領国を没収されると下野し、土佐国に留まるも再び仕官することはなかったという。
慶長18年(1613)1月に病没した。享年73。