那須資親(なす・すけちか) ?〜1514?

下野国の国人領主。那須氏資の子(三男か)。那須明資の弟。播磨守・大膳大夫。
下野国の那須上荘に拠ったことから上那須家と称される。
年次不詳であるが、兄の明資が早世したことを受けて上那須家の当主となる。文明3年(1471)5月30日付で那須肥前守(肥前守は明資の官途)宛御内書写が存在することから、この頃まで明資の存命は確実と思われるが、それ以降の明資の動静は不詳である。
那須氏は明資・資親兄弟の父である氏資と、その伯父(氏資の父である那須資之の弟)の資重とが上那須家と下那須家に分裂して対立していたが、文明4年(1472)初頭頃までには白川修理大夫入道(白川直朝)の調停で和睦したものと見え、和睦後は上・下の両那須家ともに古河公方の足利成氏に属し、文明9年(1477)7月には長尾景春を支援する成氏に従って上野国の滝に出陣している。
文明19年(1487)頃、資親は未だ後継者となる男児に恵まれなかったため、縁戚関係にあった白河結城氏の白川政朝の二男を二女の婿に迎え、資永と名乗らせて嗣子とした。
永正3年(1506)、関東地方では古河公方の足利政氏高基父子の不仲が端緒となって永正の乱と呼ばれる分裂抗争が起こる。資親の長女は宇都宮成綱に嫁いでおり、その2人のあいだに生まれた女子(宇都宮忠綱の妹)が高基の正室となっていたことから、資親・資永父子は高基方に与し、一方の政氏は常陸国の佐竹氏や南奥州の岩城氏や白河結城氏と結んで高基に対抗したが、下那須家の那須資実・資房父子は佐竹氏と友好関係にあったことから政氏方に与した。
永正4年(1507)頃に嗣子の資永に家督を譲って隠居したようだが、永正6年(1509)頃に実子・資久が生まれたことから、資永と不和になる。
『那須記』によれば永正11年(1514)に没したという。