白川顕朝(しらかわ・あきとも) ?〜?

結城一族。白河結城氏・白川親朝の子。通称は七郎左衛門尉。弾正少弼・大膳大夫。
建武3:延元元年(1336)4月、祖父で白河結城氏2代の白川宗広から陸奥・出羽国以下の所領を譲られる。
白河結城氏は南北朝争乱の初期には南朝方であったが、父の親朝が康永2:興国4年(1343)に「建武2年(1335)以前の知行地を安堵する」との条件で足利尊氏に降って以降は北朝に属し、顕朝も貞和2:正平元年(1346)、奥州管領に従って南朝方の伊達・田村氏らの拠る陸奥国の伊達郡霊山城・岩瀬郡宇津峰城を攻撃し、翌年8月頃には両城を陥落させているが、所領の回復は成されず、貞和4:正平3年(1348)2月に至って、先の帰順条件が履行されていない旨の申状を提出している。
観応元:正平5年(1350)12月に足利尊氏・直義兄弟が分裂して抗争に及ぶと(観応の擾乱)、これに連動して陸奥国でも尊氏派の畠山国氏と直義派の吉良貞家(どちらも奥州管領)の抗争が派生しているが、顕朝は吉良貞家に属して観応2:正平6年(1351)1月末頃には畠山方の岩切城攻めに従軍している。
また、この足利兄弟の分裂に乗じて尊氏攻撃に踏み切った南朝から味方するように誘われているが、同年8月頃には尊氏から先の康永2:興国4年の帰順条件履行の保証を得たようであり、以後は尊氏方として活動し、同年10月25日には陸奥国会津の新宮荘を与えられている。
応安2:正平24年(1369)6月19日付で所領や諸職を養子・満朝(顕朝の弟である小峰朝常の子)に譲り、隠退した。
没年不詳。法名は大年相公。