武田元信(たけだ・もとのぶ) 1461〜1521

若狭国武田氏。武田国信の子(二男か)。通称は彦次郎。従三位・伊豆守・治部少輔・大膳大夫。若狭守護。
文明3年(1471)12月に元服し、幕府管領の細川勝元から一字を与えられて元信と名乗ったという。
兄の信親が早世していたため、延徳2年(1490)6月に父・国信が没すると若狭国武田氏の家督ならびに若狭国と安芸国佐東郡の守護職を相続した。
延徳3年(1491)に伊豆守に任官。この年から翌年にかけての10代将軍・足利義稙による近江国の六角高頼攻めに従軍し、明応2年(1493)2月の畠山義豊(基家)攻めにも従軍している。しかし同年4月に管領・細川政元が将軍の義稙を更迭して新将軍に足利義澄を推戴する(明応の政変)動きを見せるとこれに随従し、明応8年(1499)秋に畿内で土一揆が蜂起すると、この鎮圧のために出動するなど、幕政の実権を握る細川京兆家(管領家)に忠勤を励んだ。
それらの功から明応3年(1494)(一説に文亀2年:1502)に御相伴衆に列し、文亀元年(1501)に従四位下に叙され、死没直前の大永元年(1521)10月には禁裏北門の修理料として5千疋を献上し、武将としては異例の従三位に叙されている。
元信は若狭武田氏としての最盛期を現出させた人物であるが、その反面で領国経営において苛政を布いたといい、文亀2年6月に若狭国で段銭徴収に反発する土一揆が蜂起すると、翌年10月にこれに屈して徴収の免除を余儀なくされたという失策も見られる。また、父の国信が応仁の乱の収束によって失った丹後国の奪回を企図して出兵し、永正3年(1506)には細川京兆家の軍事支援を受けるとともに丹後守護に任じられてもいるが、永正4年(1507)6月に細川政元が横死したこともあり、領有はならなかった。永正14年(1517)には逆に丹後勢の若狭国侵攻を招き、越前国の朝倉孝景らの救援を受けてようやく撃退している。
永正16年(1519)11月に二男の武田元光に家督と守護職を譲って得度し、透閑斎と号した。
大永元年(1521)12月3日に若狭国小浜で没した。法名は仏国寺殿大雄紹壮。
騎射に巧みで、武家故実書の作成にも意欲的だったという。その一方で貴族文化への志向が強く、三条西実隆や飛鳥井雅康、連歌師の宗祇や宗長ら文化人との親交もあり、自身の素養も高かったと見られている。書の腕前は「二楽軒」と称していた飛鳥井雅康に筆法が似ていたので自ら「若狭二楽」と称したという。