大和国興福寺の衆徒。藤王・良舜坊・法印と称す。
筒井順尊の長男あるいは養子といわれ、長享3年(=延徳元年:1489)7月に順尊が没したのちに家督を継いだと思われるが、得度(元服)したのは明応8年(1499)11月であり、それまでは叔父(順尊の弟)の(成身院)順宣が後見していたと見られる。
この頃から畠山氏の内紛から脱却する形で大和国衆(衆徒や国人ら)の和睦が進み、永正2年(1505)2月、春日社頭で筒井・越智の両党和睦の盟約が成立した。これに伴って越智家令の娘を妻に迎えている。
永正3年(1506)、河内国の畠山義英の討伐を企てた細川政元は筒井氏ら大和国衆にその協力を求めたが、古市氏を除く国衆らは拒否。このため政元から派遣された赤沢朝経(宗益)の攻撃を受けることとなり、大和国衆はこれに抵抗したが敗れて逃散し、筒井氏は東山内に潜んだ。
翌永正4年(1507)6月に細川氏の内訌で政元が殺害され、朝経も丹波国で自刃すると大和国衆は赤沢軍残党を駆逐して復帰を果たしたが、間もなく細川澄元が赤沢長経(朝経の養子)を大和国に派遣すると再び敗れ、順賢は河内国高屋城に落ち延びたという。
同年末頃より畠山氏でも畠山尚順と畠山義英が分裂すると、大和国衆もまた分裂することになり、筒井氏は畠山尚順方に与す。
永正5年(1508)8月に赤沢長経が敗死したのちに帰国したらしく、順賢の天文2年(1533)までの存命は確認できるものの、その後の動静は不明である。