内ヶ島氏理(うちがしま・うじさと) ?〜1585

飛騨国大野郡白川郷の国人領主。内ヶ島雅氏の子、または孫。幼名を夜叉熊か。幕府奉公衆。飛騨国大野郡帰雲城主。
内ヶ島氏は飛騨国における浄土真宗本願寺派の一大拠点となった照蓮寺を領内に抱え、密接な関係があった。また地理的環境から美濃国郡上郡や越中国砺波郡との関係が深く、そのためか、飛騨国内の騒乱に巻き込まれることがほとんどなかったようである。その反面、国外で一揆方としての活動が見受けられ、織田信長と本願寺の抗争(石山合戦)においては照蓮寺との関係から、本願寺方を支援したようである。
氏理は天正13年(1585)に羽柴秀吉が越中国富山城主・佐々成政の討伐を企てた際(越中征伐)に際して成政の要請に応じて越中国に出陣していたとされ、同年8月、この越中征伐と並行して秀吉方の将で越前国大野郡の過半の領主であった金森長近が越前国から飛騨国に侵攻し、これに内ヶ島氏の家臣で国許に在って留守を守っていた川尻備中守が応じたことを知ると急いで帰国したが、居城の焼亡は免れたものの飛騨国は既に金森勢に制圧されており、鍋山城に入っていた長近に降伏して帰城を許された。
しかし同年11月29日の夜にマグニチュード7.9と推測される大地震が起こり、山崩れによる土石流や洪水を受けて城も城下町も埋没して壊滅、氏理も一族とともに滅亡した。