宇都宮等綱(うつのみや・ともつな) 1420〜1460

宇都宮持綱の子。母は宇都宮満綱の娘。幼名は藤鶴丸。妻は小山持政の妹。従四位下・右馬頭・侍従・下野守。下野国宇都宮城主。
父・持綱が鎌倉公方・足利持氏との抗争で応永30年(1423)8月に敗死したときは4歳であったが、没落して常陸国の山入佐竹氏を頼り、ついで南奥州に逃れるなど諸国を放浪した。
これ以前より持氏は応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に加担した者たちを執拗に攻撃しており、これが幕府との対立を招いて緊張が高まっていたが、永享3年(1431)7月に設けられた幕府と鎌倉府の和睦交渉において、藤鶴丸の復帰が論点の一つとして取り上げられている。
永享7年(1435)に宇都宮氏の家督を継承。この前後に元服したとみられ、永享10年(1438)頃に故地の宇都宮に戻ったといい、下野守に補任されたようである。この永享10年には持氏が関東管領・上杉憲実の討伐を企てたことに端を発する永享の乱が勃発しているが、この抗争における等綱の動向は不詳である。
永享12年(1440)から翌年にかけての結城合戦には幕府軍として参陣し、持氏の遺児である足利安王丸春王丸兄弟の拠る下総国結城城の攻撃に参加した。
享徳3年(1454)末に勃発した享徳の乱においても幕府の支援を受けた関東管領の上杉氏に味方し、持氏の遺児である足利成氏(古河公方)勢と敵対した。しかし古河公方勢の圧迫を支えきれず、享徳4年(=康正元年:1455)の春頃に道景と号して出家し、家督を嫡子の明綱に譲ったようである。しかしその後も古河公方勢への抵抗を模索し続けており、康正2年(1456)4月には陸奥国白河の白川直朝に所領の下野国塩谷3ヶ郷と武茂12ヶ郷を譲ることで支援を求めたようである。
だが劣勢を挽回することはできず、長禄元年(1457)に上洛して幕府に救済を訴えており、その後に白河に下向して白川直朝を頼ったが、長禄4年(=寛正元年:1460)3月1日、白河にて没した。享年41。