名を秀家・堅家とも。通称は源太左衛門。従五位下・志摩守。近江国山崎城主。
はじめ近江国六角氏に属していたが、六角義治と不和になって織田信長に仕えた。永禄11年(1568)に信長が上洛を果たしたときのこととされる。
天正元年(1573)7月、足利義昭が山城国槙島城に拠って信長に対して挙兵したときにこれを攻め、天正9年(1581)の甲賀征伐には信楽口から侵攻した。
天正10年(1582)の本能寺の変に際して一時は明智光秀に降伏し、安土城下を焼き討ちするなどしたが、のち羽柴秀吉に属して天正11年(1583)8月に近江国愛知郡内で1万4千石の所領を安堵された。のちには摂津国三田城主として2万3千石を領有するに至る。
以後は秀吉麾下として天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦、天正15年(1587)の九州征伐、天正18年(1590)の小田原征伐などに従軍した。
天正16年(1588)、後陽成天皇の聚楽第行幸のときには関白(秀吉)諸大夫として秀吉の牛車に供奉している。
天正19年(1591)3月28日、45歳で死去した。