この戦いは、北陸版の関ヶ原の合戦とでもいうべき戦いである。
羽柴秀吉の死後、徳川家康が勢力拡大に向けて暗躍を開始し、時勢は「親徳川」か「反徳川」の択一を迫られることになった。そんな中、会津に本拠を置く上杉景勝に謀叛の兆しあり、という風説がまことしやかに流れ、家康は豊臣政権五大老筆頭という立場で諸大名の軍勢を率いて上杉征伐に乗り出した。が、家康らが会津に向かって進軍中のそのとき、隙をついて反徳川派の旗頭ともいうべき石田三成らが挙兵、ここに日本国内の大名のほぼ全てが「親徳川派=東軍」か「反徳川派=西軍」のどちらかの陣営に属することを余儀なくされたのである。
加賀国では、前田利家の子で、金沢城主・前田利長が東軍、小松城主・丹羽長重と大聖寺城の山口宗永が西軍に与していた。利長は8月1日から3日まで大聖寺城を攻め(大聖寺城の戦い)、宗永を自刃に追い込んだ。ところが、留守にしていた本拠・金沢を越前国敦賀より大谷吉継が海から狙うという情報を得て急遽戻ることになった。その戻る途中を小松城の城兵が待ちうけ、8月9日未明より浅井畷で合戦となったのである。
浅井畷は、遠浅の湖沼である木場潟の北岸に位置し、辺り一面には桑畑や水田が広がる湿地帯であった。しかも、前日からの風雨によって視界は遮られ、道は泥濘と化していたという。丹羽勢は前田勢の殿軍・長連龍隊に襲いかかり、長隊に相当の犠牲者が出た。浅井畷を城下に収めるという地の利を生かした丹羽勢は次々に新手を繰り出し、長隊は名のある武将9人を失いながらもようやく虎口を脱出し、小松城下の山城橋まで退却すると、急を知った前田軍の松平康定・太田長知・奥村英明らが軍勢を率いて駆けつけて応戦、戦いはさらに激化した。
この合戦で前田方は三十余人、丹羽方は七十余人の武将を失ったというが、合戦は丹羽勢の敗北で終息した。
なお、利長はこの合戦のために出陣が遅れ、9月12日に至ってようやく金沢を出発することができたが、関ヶ原の合戦には間に合わなかった。しかしこの合戦の功績により、加賀・能登・越中の統治を認められて119万石の大大名となったのである。