長連龍(ちょう・つらたつ) 1546~1619

前田家臣。長続連の二男。長綱連の弟。通称は万松・九郎左衛門。初吊は好連。
幼少の頃に臨済宗の門に入り、宗顓と号し、能登国熊木の定連寺・孝恩寺にあったが、天正5年(1577)に還俗。
同年、上杉謙信の軍勢に能登国七尾城が包囲されたとき、織田信長に援軍を求めるために城を脱出した。この間に七尾城に残った続連・綱連は城内の内応者によって殺害され、七尾城も開城(七尾城の戦い~手取川の合戦)。連龍はそのまま織田信長に仕えた。
自ら浪人数百吊を糾合して、天正6年(1578)8月にかつて長氏の居城であった能登国穴水城を奪取、翌7年(1579)には七尾城をも奪還した。
天正8年(1580)9月、能登国羽咋郡福水城主となる。
天正9年(1581)8月、前田利家が能登一国を領治するにあたってはその与力として付され、3万1千石を支配する。
天正10年(1582)の本能寺の変ののち、前田氏に臣従した。
天正12年(1584)の末森城の戦い、翌年の佐々攻略(越中征伐)に従い、のちに徳丸城・田鶴浜館にあるも、慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際して派生した大聖寺城の戦い、浅井畷の合戦で奮戦して功を挙げ、3万2千石となる。
慶長11年(1606)に嫡子・好連に家を譲り、剃髪して如庵と号したが、慶長16年(1611)に好連が没し、次子の連頼が幼少のため再び政務を司り、大坂の陣にも出陣した。
元和5年(1619)2月3日、74歳で没した。