天文21年(1552)3月、相模国の北条氏康からの圧迫を受けていた関東管領・上杉憲政が居城の上野国平井城を捨て、越後国へと出奔した。上野国は憲政が去ったことで領主不在となり、その家宰格であった上野国箕輪城主・長野業政が近隣の国人領主を糾合することで北条氏およびその同盟勢力であった甲斐国の武田信玄に対抗していたが、永禄4年(1561)6月に死没する。
西上野の要衝に位置する箕輪城は、天然の要害に守られたうえに堀・土塁などを巧みに配した堅城であったことに加え、城主であった業政は戦上手としても知られた武将であった。
業政が没したのちは二男の長野業盛が14歳で家督を継いで城主となったが、それが知れれば武田・北条勢の攻勢に晒されることが明らかであったことから業政の喪は秘されたが、やがては信玄の知るところとなったという。
一方の信玄はかねてより小幡憲重の支援を名分に上野国への侵攻を企てていたが、同年の秋頃より信濃国佐久郡から上野国南域へ向けての本格的な軍事行動を開始し、11月末には国峰城を攻略、永禄5年(1562)中には和田城(のちの高崎城)主の和田業繁が武田氏に帰順、永禄8年(1565)6月には倉賀野城、これと前後して(正確な時期は不詳)安中・松井田の両城も陥落させた。
また、真田幸隆を中心とする別働隊は信濃国小県郡から吾妻郡方面へと侵攻し、永禄6年(1563)10月には斎藤憲広の拠る岩櫃城を落とし、さらには憲広の逃れた岳山城をも永禄8年末頃に攻略。これにより、箕輪城は周辺の防衛網を破られて孤立するに至ったのである。
そして永禄9年(1566)9月、信玄は飯富虎昌・小宮山昌友・馬場信房・山県昌景・武田勝頼・内藤昌豊・原昌胤・浅利信種・小幡信貞・小山田信茂・穴山信君らの将を率い、2万ともいわれる大軍を擁して箕輪城に迫った。信玄の四男である勝頼は、これが初陣であった。
この頃には業政が婚姻政策などによって築き上げた連合体制は既に崩壊し、長野勢の拠点は本城の箕輪城、そして支城の鷹留城のみとなっていた。この2つの城は、1つの城が攻撃されればもう1つの城が後詰をするというように、互いを補い合う一対の城であった。そのため、武田勢はこの両城の連携を断つ策に出ることにした。
箕輪城戦線においては、同月20日頃より城主の業盛の指揮のもと、板鼻の北の丘陵地帯・若田原において武田勢主力軍との攻防戦が繰り広げられた。箕輪城にとってはこの丘陵地帯が最後の防衛線となるため果敢に迎撃を試みたのだが、数に劣る長野勢は武田勢に押し込まれ、箕輪城への籠城を余儀なくされた。
そして時期は不詳ながらも、この若田原での攻防戦と併行して武田勢が長野方の高浜砦を陥落させて箕輪城と鷹留城の分断に成功、ここに箕輪城は完全に孤立することになったのである(白岩の合戦)。
箕輪城への総攻撃は、9月27日より開始された。守る長野勢の兵力は1千5百ほどと伝わるが、城中には上泉信綱・白川満勝・道寺信方・岸信保ら「長野十六槍」と謳われた勇将がおり、武田勢の猛攻にもよく抵抗を続けた。
しかし10倍以上の兵力を有する武田勢によって次第に兵力を削がれていき、援軍も望めないとあっては勝敗の帰趨は明らかであった。それでも業盛は父・業政の遺命を守って最後まで武田方に降伏することを拒み通し、9月29日に最期の反撃に討って出たあと御前曲輪に戻り、辞世の歌を詠んで自害したのである。享年19であった。
なお、昭和2年(1927)に御前曲輪の古井戸の底から多数の墓石が発見されているが、この落城の際、先祖の墳墓が敵の辱めを受けることを嫌って隠されたものであるという。