三星(みつぼし)城の戦い:その2

宇喜多直家ははじめ備前国天神山城主・浦上宗景に属し、表には優れた用兵と武略で、裏には調略や暗殺などの権謀術数を駆使して勢力を拡張し、のちには安芸国を本国とする中国地方の雄・毛利氏と結んで自立を目論んだ。そして天正5年(1577)2月には主君であった宗景を天神山城に攻めて逐い(天神山城の戦い)、備前国を基盤とする戦国大名に成りあがったのである。
直家は浦上氏を追い落とすとその旧領を確実に吸収するべく、家臣の花房職之と延原弾正に命じ、浦上氏の旧臣で宇喜多氏に抵抗を続ける者たちの制圧に取り掛かった。
花房・延原は天正7年(1579)2月に備前国赤坂郡の周匝(すさい)城、翌月には美作国勝田郡飯岡(ゆうか)城(別称を鷲山城)、ついで英田郡の鷹巣山城などを攻め落とすと、4月には次なる標的を美作国東域の要衝・三星城に据えて倉掛山に布陣したのである。

三星城に拠る後藤勝基は家臣を東西南北の諸曲輪に配置、さらには浦上氏旧臣を糾合して本丸を固めて総勢5百余の兵力で籠城していたが、宇喜多勢が倉掛山に布陣したとの情報を得るとその進軍を予測し、後藤久元・小堀吉秋・下山正氏らの手勢を荒木田村の山中に兵を伏せて宇喜多勢を待ち受け、延原弾正の軍勢をやり過ごしたあとに後方より攻めかかったのである。
不意を衝かれた延原隊はたちまちのうちに崩されて散乱し、そこへ後藤久元が大将の延原弾正めがけて討ちかかったために延原も負傷し、一時は危うかったが家臣の助太刀で窮地を脱し位田村の鳥奥山まで兵を退いた。
三星城からの遊撃隊は進んで倉掛山の宇喜多陣屋を焼き払ったところ、三星城では宇喜多勢の先陣が激しく攻めかかっていた。これを見た遊撃隊は引き返して城の防御にあたり、そこへ城中からも軍勢を繰り出したため後藤勢は宇喜多勢の多くを討ち取り、あるいは手負いにし、勝鬨をあげて三星城に戻ったのである。
緒戦に敗れた宇喜多勢は攻撃を手控えて鳥奥山に付城を築いて勝間城と名づけ、ここに在城して岡山城に援兵を要請したところ、坂崎直盛(または宇喜多忠家)が派遣された。
宇喜多陣営は改めて軍議を開き、内応者を作ることに一決。湯郷村の東光寺住職を介して密かに内応者を募ると、東の曲輪を守っていた安東相馬がこれに応じるところとなった。しかし、これを察知した勝基が妻に相談したところ、妻が謀略をもって安東を討ち取ったため、城内の士気は再び高まったのである。
だが5月に至り、他の内応者のためか、それとも単なる失火か本丸より出火し、この混乱に乗じた宇喜多勢は城に攻め込んで陥落させたのである。
城主の勝基は自刃を覚悟したが、家臣の諌めを受けて28騎の兵を引き連れて城を脱出。宇喜多勢の追撃を受けつつも入田原あたりまで逃れたがついには観念し、5月2日に長内村で自刃した。
勝基の自刃した場所は「隠れ坂」と呼ばれる坂道にある大庵寺の門前と伝わり、現在の後藤神社の本殿の辺りであるという。

一説では、この頃には後藤勝基は既に没しており、当時の三星城主は勝基の嫡子・元政であったともいわれる。
また、この三星城の陥落を天正7年ではなく、天正8年(1580)5月とする見解も提唱されている。