上野国の沼田地域(現:群馬県沼田市)は越後国と関東地方をつなぐ戦略上の要地であるが、天正8年(1580)8月頃に甲斐国の武田氏が領有するところとなり、翌年には武田氏の重臣で沼田奪取に功績のあった真田昌幸が沼田城代となって沼田領を統治した。
しかし天正10年(1582)3月に武田氏が織田氏によって滅ぼされたため、昌幸は織田氏の傘下に入ることとなったが、6月の本能寺の変で織田信長が横死したことによって関東地方の織田領国が瓦解すると、上野国を制圧した北条氏に従属することとなった。
この沼田領は武田氏が領有する以前は北条氏が抑えており、いわば北条氏の旧領であったが、昌幸はこの地の実効支配を続け、北条氏からの返還要請に応じずにいた。
北条氏当主の北条氏直は本能寺の変後、武田氏旧領の甲斐・信濃国をめぐって徳川家康とも抗争していたが、真田氏は9月半ば頃に徳川氏に鞍替えする。そして10月末に北条氏と徳川氏が和睦すると、その講和条件の一項に沼田領を含む上野国の権益を北条氏に認めるということが両者の間で取り決められた。真田氏の主家となった徳川氏が北条氏に上野国の領有を認めたのだから、真田氏は上野国の沼田領を北条氏に引き渡すべき、というのが徳川・北条側の論理であるが、無論、真田氏は頑としてこれを受け入れなかった。
天正14年(1586)10月末、徳川氏が羽柴秀吉に臣従することになり、真田氏も豊臣(羽柴)政権の傘下で徳川氏に付与されたことから、沼田領をめぐる問題は両名の主君となった秀吉が裁定することになる。全国統一を目論む秀吉は、北条氏を従えるために上洛を要請するが、当主の氏直やその父で隠居の北条氏政は腰を上げようとはしなかった。
それでも家康の口添えもあり、天正16年(1588)8月下旬に北条氏規(氏直の叔父。氏政の弟)が上洛し、このときに沼田領問題が議題に上ったようである。
翌天正17年(1589)2月に北条家臣の板部岡江雪斎が上洛し、そのときに沼田領問題に秀吉の裁定が伝えられた。その内容は、沼田城ならびに沼田領の2/3を北条氏が、残る1/3を真田氏が領有するというものであった。しかしこの裁定の発効には「氏直あるいは氏政が上洛する約束をする」という条件が付けられた。秀吉の狙いは当主の氏直または前当主の氏政が上洛すること、つまりは北条氏の臣従であり、そのためにまたもや沼田領の扱いが取引材料とされたのである。
これを受けて北条氏が6月に「北条氏政が極月(12月)に小田原を出立する」と返答すると、間もなく引き渡しの手続きが進められ、7月末頃には完了したようである。
北条氏側では沼田領の引き渡しを受け、約束のとおりに12月に北条氏政が上洛する準備が進められていたようだが、11月に至って家中を震撼させる案件が持ち上がる。北条氏邦の家臣で沼田城代に任じられていた猪俣邦憲が、真田氏が領有する沼田領に含まれる名胡桃城を、謀略を用いて奪取したのである。この事件で、名胡桃城代の鈴木重則が自刃した。
これに激怒した秀吉はこの後間もなく北条氏討伐を決め、翌天正18年(1590)3月からの小田原征伐で戦国大名としての北条氏は滅びることになるのである。