北条氏規(ほうじょう・うじのり) 1545〜1600

北条氏康の五男であるが、天文21年(1552)に早世した兄がいるために四男と表記されることが多い。母は今川氏親の娘で、北条氏政氏照氏邦の同母弟。通称は助五郎。左馬助・美濃守。相模国三浦郡三崎城主。
北条氏は各々が個性的な意匠を凝らした印判を用いたことが知られているが、この氏規の印判は「真実」。
少年期には今川氏への人質として駿府に居住しており、このときに同じく人質となっていた松平竹千代(のちの徳川家康)と親交を結んだといわれる。
永禄5年(1562)6月には遠江国浅羽(今川氏領)に所領を与えられており、永禄8年(1565)1月には伊豆国の所領(北条氏領)に朱印状を発給していることから、この間に北条氏に戻ってきたものと思われる。
北条綱成の娘を妻とし、永禄9年(1566)頃より相模国三浦郡の支配領域を継承した。
また、しばしば伊豆国韮山城に在城したことが知られているが、これは北条領西部において他勢力との軍事的緊張が高まったとき、警戒のために在城したものである。
天正10年(1582)2月より織田氏が武田氏を攻めた武田征伐に際しては織田勢に呼応して駿河国に侵攻、天神ヶ尾(手鹿尾)・徳倉・沼津・深沢などの諸城を攻略し、河東地域一帯を制圧した。
主に北条氏の外交を担当し、永禄11年(1568)末から翌年5月にかけて徳川家康が今川氏真を攻めた遠江国掛川城の戦いには今川氏を支援して和睦交渉を取りまとめ、天正10年の武田氏滅亡後に甲斐・信濃両国の支配権をめぐって北条氏と徳川氏が対峙したとき(若神子の合戦)には、その講和締結に尽力している。
天正14年(1586)頃には、かつて長尾顕長が領有していた上野国館林城に入部し、周辺領域を支配した。
天正16年(1588)8月、度重なる羽柴秀吉の要請に応じて主君・北条氏直の代理として上洛、豊臣氏と北条氏の和睦に尽力した。しかし交渉は決裂し、天正18年(1590)の小田原征伐においては韮山城に籠城したが、家康の説得に応じて開城し、小田原城に赴いて氏直に和平を勧めた。
小田原開城後は兄の氏政・氏照の介錯を務め、のち氏直に従って高野山に赴いた。
天正19年(1591)、秀吉から許されて河内国丹南郡に2千石の所領を宛がわれ、文禄3年(1594)には河内国の錦部・河内郡を加増され、約7千石を領した。
慶長5年(1600)2月8日、大坂にて死去。享年56。法名は一睡院殿勝誉宗円大居士。
氏直の没後、北条氏の家名はこの氏規の系統に受け継がれ、氏規の遺領は嫡男・氏盛が継承するところとなり、これがのちの狭山藩領のもととなった。