若神子(わかみこ)の合戦

天正10年(1582)3月、甲斐・信濃・駿河・上野国の過半を領していた武田勝頼織田信長によって滅ぼされた(武田征伐)。信長はその後の武田旧領の分配において駿河国を年来の同盟者であった徳川家康に与え、甲斐国の統治を重臣の河尻秀隆に、上野国を滝川一益に委任したが、同年6月の本能寺の変によって信長が横死すると、河尻秀隆は混乱に乗じて蜂起した一揆によって討たれ、甲斐国は領主不在の混沌とした情勢となったのである。
これを奇貨と捉えた徳川家康は甲斐に入国し、国人領主らを帰属させるとともに古府中(甲府)を押さえて甲斐国の大半を制した。
また、上野国を統治していた滝川一益を神流川の合戦で破った北条氏直も軍勢を率いて信濃国に進撃し、7月中旬には木曾義昌真田昌幸諏訪頼忠らを従えて、上野国西部から信濃国東部に亘る地域を制圧した。
この頃には徳川勢も信濃国の経略に向けて動いており、7月19日には徳川勢の先陣が諏訪頼忠の拠る諏訪郡高島城を攻めるに至ったが、頼忠から支援の要請を受けた氏直は軍勢を南下させて徳川勢を圧迫した。これを受けて徳川勢は甲斐国に後退するが、北条勢はこれを追って甲斐国へと進撃したため、信濃・甲斐国の領有をめぐる抗争が展開されることになったのである。

家康は北条勢に対抗して8月10日に古府中から新府に進出、翌日には出城を築いて防衛体制を布いたため、両軍勢は八ヶ岳山麓の若神子の地で対峙することとなった。このときの軍勢は北条勢が2万、徳川勢が1万程度(軍勢数には異説あり)と見られており、数の上では北条勢が優勢であったが要害の地に拠る徳川勢を目前に控えて攻めあぐね、戦況は膠着した。
氏直は新府に突出した家康の背後を衝くべく、北条氏忠の率いる軍勢を甲斐国都留郡から侵攻させたが、家康も迎撃のために古府中から軍勢を派遣、黒駒で合戦となった。この合戦は徳川勢が北条勢300余人を討ち捕えて勝利し、北条勢を撃退している。

局地戦としては若神子で停滞していた両陣営であったが、その周辺の情勢から戦況が変わりつつあった。8月下旬に至り、前月に北条方に属して信濃国木曾・安曇・筑摩の3郡を領していた木曾義昌が徳川方に通じたのである。義昌は美濃国の織田信孝とも連絡を取っているが、これは北条勢力による包囲戦略を阻むための方策と思われる。
さらには9月中旬、信濃国小県郡や上野国吾妻郡に勢力を張る真田昌幸もが徳川方に通じるという事態になった。この2人の離反によって北条勢は広範囲に亘って背後を押さえられたことになり、主力軍が若神子に釘付けにされるという苦境に陥ったのである。
こうした事態を受け、10月中旬頃には氏直の父・北条氏政が真田軍の南下を阻む措置を取る指示を下すと共に、北条綱成に5千の軍勢を付与して北条主力軍の退路にあたる信濃国小諸付近の確保を図ったため、10月24日には徳川方の真田昌幸・依田(蘆田)信蕃と小競り合いがあった。
また、この北条勢の思わぬ苦戦に、かねてより北条氏と敵対関係にあった常陸国の佐竹義重が下総国の古河や栗橋に軍勢を出し、北条領に侵攻する動きを見せている。

このような状況下の10月29日、北条氏と徳川氏で和議が結ばれることとなった。和睦交渉がいつから持たれていたかは不詳だが、織田信雄の要請によるものという。
和議の条件は、甲斐・信濃国は徳川氏、上野国は北条氏の統治を認めることに加え、家康の娘が氏直に嫁すという婚姻政策も盛り込まれた。これによってこの抗争の終結は単なる和睦に止まらず、同盟関係を築くに至ったのである。