坊っちゃん、Pushing to the front、津田左右吉、とほゝぎす (2013.1.28)


1.笹飴と坊っちゃん

箱の黄色も懐かしい森永ミルクキャラメルは、歯にくっついて、詰め物が取れてしまうことがある、という話題から、いちばん強力なのはなんといっても「越後の笹飴」だね、うっかり噛んでしまうと、塞がった口が開かなくなる、とわたしが口を挟んだら、その場の友人のだれも笹飴を知らない。「えーっ、坊っちゃんに出て来る越後の笹飴を知らないのお!?」

ということで、じゃあこんど正月に帰省したら買ってきてあげる、ということになった。とは言ったものの、同じ越後とはいえ柏崎の町中では売っていない。昔は駅の売店なら置いてあったのだ。その売店もコンビニに変わった。ならば、今ではお土産物の「駅の売店」になっている高速のSAにはあるかもしれない、と越後川口に立ち寄ったら、あった、あった。そのパッケージに印刷されている坊っちゃんからの引用もなつかしい、昔のままだ。

うとうとしていたら清(きよ)の夢を見た。清が越後の笹飴を笹ぐるみむしゃむしゃ食って居る。笹は毒だから、よしたらよからうと云ふと、いえ此笹が御薬で御座いますと云って旨さうに食って居る。おれがあきれ返って大きな口を開いてハヽヽヽと笑ったら眼が覚めた。
最後に坊っちゃんを読んだのはいつだったろうか。じつをいえば、坊っちゃんを読んだから越後の笹飴を知っているのではなくて、小学生のころ野尻湖のほうへ遠足旅行したときにお土産に買った笹飴で漱石の坊っちゃんという作品を知ったのだった。それを、坊っちゃんを読んだ人なら笹飴を知っているはずだと、決めてかかったのはわたしの誤算。きっと、何度か読んだつもりのわたしでさえ、「えーっ、知らないの!?」と言われそうな名物やキーワードがいくつもあるにちがいない。

そこで、何十年ぶりかで坊っちゃんを読み返してみた。すると、えーっ、こんなことが書いてあったのか、と記憶にない描写や語句が出て来る、出て来る。たとえば、赴任早々、坊っちゃんが誘われて釣りに出かけた船の上で、

一体此赤シャツはわるい癖だ。誰を捕まへても片仮名の唐人の名を並べたがる。人には夫々専門があつたものだ。おれの様な数学の教師にゴリキだか車力だか見当がつくものか、少しは遠慮するがいゝ。云ふならフランクリンの自伝とかプツシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知つてる名を使ふがいゝ。
 『現代日本文學体系 17 夏目漱石集(1)』筑摩書房 1968年 p.211
はて、プツシングっていったい誰だ?と首をひねってしまった。私の持っている筑摩書房版には注釈はいっさいない。

しばらく字面を追っていたが、これはたぶん英語で Pushing to the front のカナ表記ではなかろうかと見当がついた。グーグルで検索したら、そのものズバリのタイトルの書籍がグーテンベルク・プロジェクトに収まっている。人名ではなかったのだ。著者は Orison Swett Marden、アメリカの実業家で、著述家、困難を克服した偉人のエピソードやら格言箴言を盛り込んだ著書はベストセラーとなった。つまり「成功の伝道師」。すると、文学に疎いという設定の坊っちゃんでも知っている名前として持ち出す背景は何なんだろう? ちょっと考えて、これはたぶん、当時学校の教科書に載っていたんじゃなかろうか、と想像がついた。グーテンベルクのテクストを見ると、1911年版のまえがきに、わざわざ日本を名指しで、こうある。

In Japan and several other countries it is used extensively in the public schools.
本書は日本など諸外国で学校教育の教材に広く採用されている。
  Pushing to the Front BY ORISON SWETT MARDEN 1911
はあ、そうでしたか。フランクリンはともかく、オリソン・マーデンって、今ではさっぱり聞かないけど。当時は日本で有名人だったのか!

ほかにもある。師範学校と中学の生徒が喧嘩を始めたのでその仲裁に入った山嵐と坊っちゃんが、逆に巻き添えを食った場面、

敵も味方も一度に引上げて仕舞った。田舎者でも退却は巧妙だ。クロパトキンより旨い位である。
はて、クロパトキン? クロポトキンのことか? いや、退却とあるから、違うだろう。ネットで検索すると、日露戦争時のロシア満州軍総司令官とある。会戦時、後退を繰り返したことを指すらしい。これは教科書知識ではなくて、当時のメディア情報ではなかろうか。クロパトキンではたと思い出したのが、こどもの頃流行ったしりとり歌、
スズメ、メジロ、ロシヤ、ヤマンコク、クロバタキ、キンターマ、・・・
あのクロバタキとはクロパトキンのことだったのか? 意味もわからず唱えていたが、なんで縁遠いロシアが出てくるのか、不思議に思っていたものだった。

細かな疑問を上げるときりがない。だいいち、なんで漱石が越後の笹飴を知っていたのか、そもそも疑問だ。そこで、きっと岩波の漱石全集ならかゆいところに行き届いている注釈があるだろう、と市立図書館から借り出してくる。

図書館の全集は1994年発行のもの。その注解には、プツシング、ツー、ゼ、フロントについて、案の定「実利主義を説き、やはり教科書によくつかわれた」とあるが、それだけだ。1994年じゃあ、一般読者はそれ以上知ることはなかったろう。それにしてもこの全集本、坊っちゃんの注解だけで18ページもある。その18ページ分にざっと目を通していたら、おやっ、とある項目に目が止まった。

足踏 初出以来「雪踏」と印字された。原稿は「足踏」と書く。
 『漱石全集 第二巻』岩波書店 1994年 p.455
なんだ、なんだ?! わたしが読んでいた筑摩書房版では
バッタだらうが雪駄だらうが、非はおれにある事ぢやない。
とあって、雪駄(せった)って知らないが、たぶん江戸弁の語呂合わせだろう、くらいに思っていたものが、じつは漱石が書いた原稿は雪駄ではなくて足踏(あしぶみ)だったのでそう校訂した、というのだ。足踏みとは、バッタを蚊帳に入れた寄宿生のいたずら坊主どもが、宿直室の真上の二階で、足を踏みならしたことを指す。なんと、そもそもの初出から90年間も誤植のままだった、というわけか。初出というのは、雑誌「ほととぎす」。前年発表の猫といい、この坊っちゃんといい、なんでまたよりによって発行部数もなく、校正もいいかげんな俳句の同人誌などに漱石は小説を寄稿したんだろう?

越後の笹飴どころじゃない。



2.雑誌『成功』と出世イデオロギー

「プツシング、ツー、ゼ、フロント」が成功読本ということは分かったが、著者のOrison Swett Mardenは、調べてみると、Wikipediaの英語版の項目にちゃんとある。Wikipediaは同じ項目の他言語版もリンクを表示するので重宝するのだが、この項目にあるのは韓国語だけだ。かつての有名人も今ではファンを失い、半ば忘れられたかのようだ。

その記述の中に、主な業績として、1894年のPushing to the Frontについで、1897年に雑誌『SUCCESS』を創刊したことが記されている。すると、坊っちゃんとサクセスに言及している論文が見つかった。そこに、当時アメリカの『SUCCESS』に倣い、日本でその名も『成功』という雑誌が刊行され、雑誌としては驚異的なベストセラーだったことが記されている。それによると、『成功』は、静岡県から1899年に上京した村上濁浪が『SUCCESS』を読んで感銘を受けて、1902年に創刊、1916年廃刊まで続いた、という。

明治30年代の後半になると、諸体制、組織の建設はほぼ出来上がり、それに就ける人の位置づけが確立してきた。これは、一面で出世はもはや僥倖ではなく、規定されているルートに従わなければならなくなったことを意味している。学校=学歴が人々の目を引き、人々に意識され始めた。(中略)
 このような現実に対処する手段として、苦学生やもしくはその予備軍を読者とする『成功』は勉強による出世を積極的にすすめた。
  傳澤玲 Fu Chark Ling 「明治三〇年代における立身出世論考 『成功』を中心に」
  比較文学・文化論集11巻1-16p 東京大学比較文学・文化研究会 1995-03-13 
『成功』の値段は10銭。たばこ1.5個分で、苦学生にも手ごろだった、ということから当時の物価感覚がつかめる。さらに発行部数は、自称ながら、発行から3年で「読者数1万5千人と豪語」していたとのことだから、当時のベストセラーの部数というものの尺度にもなる。

漱石が坊っちゃんを書いたのは日露戦争後の1906年(明治39年)。昔読んだときは、戦勝に湧いているような空気がなく、日清戦争にしろ、日露戦争にしろ、漱石が冷めた見方をしていたとの印象をもったものだが、こうして、当時の出世、成功にまつわる世間イデオロギーの観点から読み直すと、坊っちゃんもまた違った色合いを放つ。

「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」
(中略)
「そりゃ強い事は堀田さんの方が強さうぢゃけれど、然し赤シャツさんは学士さんぢゃけれ、働らきはある方ぞな、もし。それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし」
「つまりどっちがいいんですかね」
「つまり月給の多い方がえらいのぢゃらうがなもし」
これぢゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。
猫もそうだが、ところどころに出て来る成金主義への反発、うわべだけ西洋のまねはしたものの、中身が伴わない日本の近代化についての諦観が、今でも漱石が読まれる下地ではないか。大学出ということで教頭に収まっている赤シャツと、それにへつらって昇進を狙う美術教師の野だ、それと戦争する坊っちゃん・山嵐連合は、今読んでもあながち現実離れしたカリカチュアとも思えない。

学問学歴による出世という観念は福沢諭吉の『学問のすすめ』に焚き付けられた感がある。有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の書き出しで始まる明治初期のベストセラーは、しかし、人間の平等を唱えた本ではない。そうではなくて、それに続くパラグラフにあるように、

人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
つまり、「学問は人の上に人を造る」という出世イデオロギーの新約聖書だったのだ。聖書の教えは、とうぜん子供向けのバージョンがある。尋常小学校の挿絵入り修身テキストは、『学問のすすめ』と同じことを説き、かつ諭吉の文章よりはるかに分かりやすい。
ここに二人のおとこがいます。二人はもとおなじがっこうにいました。一人はせんせいのいましめをまもらず、なまけてばかりいたので、こんなあわれな人となりました。一人はよくせんせいのおしえをきいて、べんきょうしたので、いまはりっぱな人となりました。まかぬたねははえぬ。
  尋常小学校 修身書 巻二 1918年「五 ベンキャウセヨ」(原文はカタカナ)
漢字が少ないといってバカにはできない。こうして、出世できない理由、失敗や貧困の原因を個人的欠陥のせいにする出世観が刷り込まれるのだ。
「ベンキャウセヨ」は、貧困や身分的上下尺度で下位にある者への露骨な侮辱、そのようになることの恐怖という庶民の価値意識を利用しつつ、多面ではそのような価値意識をつくりだしつつ説かれている。
  竹内洋「日本人の出世観」 学文社 1978年 p.49
ひたすら勉強すればだれでも出世できるという幻想は、勉強しないものへのおどしとセットになっていたのだ。そうして「出世主義」は「勉強奨励」の衣装をつぎつぎと着せ替えて、連綿とこんにちまで続いている。
勉強は、世俗的な功利主義とむすびつく概念であった。だからこそ、受験戦争や偏差値教育が生まれたのだし、百年来、親は子の尻を叩きつづけてきたわけだ。なんのことはない、私たちが体内に飼っている向学菌も、本当は、学究精神なんていう立派なものじゃなく、もうちょっと勉強していまより少し上の地位に行きたい、という現世的な欲望の残りカスだったのだ。そして勉強本の正体は、そんなわれら凡人の強迫観念に応えてくれる、ありがたい疑似出世読本なのである。
  斎藤美奈子「学問は人の上に人を造る。超勉強法は疑似出世読本だ」(『読者は踊る』文春文庫 2001年 p.399)
坊っちゃんは学問が生来好きではないという設定だが、家を処分した財産の取り分で、商売をやるか、学費にするか迷ったとき、「3年間一生懸命にやれば何か出来る」だろうと通りすがりの物理学校に入学してしまう。さらに、卒業しても何をしようというあてもなく、たまたま求人のあった四国の学校に数学教師として赴任する。つまり、欲のない人間が「成功・出世」のイデオロギーと衝突する物語として読めなくもない。



3.日露戦争と日本留学

さて、上述の「明治三〇年代における立身出世論考」で坊っちゃんを『成功』と関連づけてくれた傳澤玲氏は、じつは日中比較文化研究者で、中国の側から日本の歴史を研究する視点が新鮮である。関連する論文に「日本留学と日本人教習 : 一九一〇年代を中心に」という論考がある。

はて、「日本人教習」ってなんだろう?聞いたことないなあ、と読んでみると、教師として中国に渡った日本人のことだと知る。日本留学とはもちろん中国から日本にやってきた留学生のことだ。

この小論においては、私は、先行の研究を、当時日本の一般雑誌『成功』及び中国の教育、文学史に名を残した蒋夢麟、胡適、郭沫若の自伝や回想記と結び合わせ、当時の中国人日本留学と中国に渡った日本人教習について見てゆきたいと思う。
  傳澤玲 Fu Chark Ling 「日本留学と日本人教習 一九一〇年代を中心に」
  比較文学・文化論集. 12号, 1996-02-20 p.16
もちろんわたしとて、かつて日本の近代化、西洋化を学ぼうと中国から留学生が来たことは知っている。そしてその中には魯迅のような、中国に帰ってから白話体(口語文あるいは俗語文)を用いて文学革命の先頭に立った知識人もいたことも。けれど、日本で学んだことがどうして文学革命と結びつくのか、理解できていなかった。さらに、日本に留学に来れたのは、一部官費で派遣されたエリートか、裕福な階層の子弟の、ごく少数だと思っていた。しかも、日清戦争後とあっては、反日感情が残り、それでも日本から学ぼうと意欲する人は、先見の明のある例外的な中国人かとばかり思い込んでいた。ところが、それはとんでもない誤解、というより、無知、だった。
すでに述べたように中国人の日本留学は1896年に始まった。しかし、初めはそれほど盛んではなく、科挙廃止の前年を見ると、留学生の数は1300人足らずであった。ところが、1905年には留学生は一挙に8000人となり、1906年には13000〜14000人とも、20000人とも言われるほどの人数に登ったという。
「登ったという」というのは、先行する研究書(実藤恵秀『中国人日本留学史』1970年)を典拠にしているからだが、傳澤玲論文には、こうした先行研究者の参考文献の一覧があり、図書館にあるものだけでも参照してみると、それらが巧みに要約されていることに感心する。

それはともかく、坊っちゃんが書かれたときに1万人を超える留学生が日本に来ていたと知って、わたしはびっくりしてしまった。日露戦争での日本の勝利が日本留学ブームを加速させた。

怒濤のように押し寄せた留学生の中には、官費留学生だけでなく、自費で旅費を準備した留学生や、旅行者もいた。兄弟姉妹、夫婦親子と一家揃って海を渡ったものもあれば、13、4歳の子供から7、80歳の老人までもあった。
つまり、「当時の中国の人々の認識では、留学とは若い世代の特権ではなく、すべての人が体験できることだった」らしい。そうして日本に留学生が押し寄せるのと並行して、多くの日本人が教師として清国に招かれた。それが「日本人教習」。その数はピーク時には600名に達したという。

けれど、日本での留学生の受け入れ体制は出来上がっていたわけではない。しかも、日本に来たばかりの留学生はまだ日本語がおぼつかない。そこに、正式の学校に入学する前に予備教育を実施する学校が設立された。そんな中国人留学生の教育に人生を捧げた日本人に松本亀次郎(1866〜1945年)がいる。かれから教えを受け、その恩を忘れなかった中国人留学生が、この教育家への感謝と賛辞を綴っている。その中でとくに注目したのが、当時中国人が日本人にどう映っていたかということ。

 それまで中国を尊敬してきた日本は、甲午戦争(日清戦争のこと)以後、一転して中国を侮蔑、軽視するようになり、一般の民衆も、政府の教育、宣伝のもとで、侮りをこめた口調で中国人を「弁髪奴」、「清国奴」とよび、中国を植民地、中国人を下等な人間だとみなした。
 このような時代にあって、いったい誰が、自国の学生を教育するという、立派でしかも勤続年数が加算される仕事を放棄して、下等であるとみなされている人間の教育を担当しようとするであろうか。松本亀次郎先生は、まさにこのとき、毅然として公立師範の職をなげだし、中国人留学生の教育に身を投じた。驚きを禁じえない。
  汪向栄「中国の近代化と松本亀次郎」(『清国お雇い日本人』竹内実 監訳 朝日新聞社 1991年 p.236)
これなどは、日本の側からは決して書かれなかった歴史ではないかと思う。さらに当時の新聞や雑誌だけ読んでいた日本の知識人と言われる人たちも、世界史を見る視軸が限られていたと思う。実際に中国人留学生に接し、その人たちに中国の未来を見た松本亀次郎は、留学生教育に投じた理由を汪向栄に問われて、こう答えたという。「当今は中国の国勢が不振であるが、この国家と民族は永遠にこのままでありつづけるはずがない」「今日私の教育している学生は、いずれ中国の中心となるものと、私は信じている」(p.236)。そうしてそのとおりになった。
彼らが日本で得た種子は中国で撒かれ、絢爛と花開いたのである。一方日本の場合では、外国人に対する日本語教育が一つの切っ掛けとなって日本語の文法の本格的な研究、日華辞典の編纂なども一段と進んでいった。他方、漢籍から中国を見るのではなく、中国の学校の教師として、日本人教習は実際の中国人の社会に入り込み、一般の民衆と交流し、生の中国を認識することができた。(傳澤玲)
中国人留学生と日本人教習に関する研究書は多くはないが、そのうちの1冊に思わぬ人名が出て来た。
早稲田大学が清国留学生部を開設するのは1905年9月のことで、中国留学生に対し師範教育と実業教育を授けるというのが目的であった。(中略)教授陣には(中略)などとならんで、のちに歴史学の研究で有名となる津田左右吉の名前も見える。彼は当時日本語を担当していた。
  阿部洋「中国の近代教育と明治日本」福村出版 1990年 p.86
えっ? 津田左右吉が中国人留学生に日本語を教えていた、って?



4.漱石と津田左右吉

津田左右吉が早稲田の留学生部で教えたという記述は、彼の回想記にも日記にも見当たらない。もしも中国留学生を教えていた時期があったとしても、それほど記憶にも印象にも残らなかったということなのだろう。ただ、早稲田の創立70周年記念アルバムへの寄稿文には、こんなくだりがある。

僕は明治23年の春、多分4月であったらう、東京に出て来て、すぐに学校の邦語政治科の二年のクラスに編入せられ、翌24年の夏、卒業といふことになった。二年のクラスに入れられたのは、講義録の購読者であって校外生といふ名をもっていたためである。
  津田左右吉「東京専門学校時代のこと」津田左右吉全集 第24巻 1952年 p.83
おおっと、講義録ね。知ってるぜい。てか、雑誌『成功』を追跡していて目にしたばかりだ。
こうして、明治30年代から苦学や独学のブームがはじまる。雑誌『成功』はこのような田舎青年の上京苦学熱に対応した雑誌であった。
 しかし、上京苦学もできない田舎青年はどのようにして煩悶を癒したのだろうか。独学によってである。上京=苦学ルートに乗れない者、あるいはその予備軍が利用したのが、中学講義録などの独学媒体であった。
  竹内洋「立身出世主義 近代日本のロマンと欲望」NHK出版 1997年 p.155
いまでいう「通信教育」の走りになろうか。上記「立身出世主義」には早稲田中学校講義録の受講者(校外生)の推移のグラフがある。それはCO2の上昇曲線のような右肩上がりを示して、大正11年(1922)には12万人ほどに達している。津田左右吉が東京専門学校に入学した明治23年(1890)はまだ苦学の時代ではなく、校外生の数字はグラフから読み取れないほど0に近い。せいぜい数百人ほどではないか、と思われる。津田の回想からも、学生生活がのんびりしたものであったことが伺える。

だが、津田と坊っちゃんが関連づくのは『成功』とは関係がない。彼の日記である。

漱石の名が最初に日記に登場するのは明治39年(1906)10月13日。「草枕」を読んで感心することから始まる。「草枕」はその9月に『新小説』に発表されているから、その掲載誌を読んだということになる。日記は翌明治40年は11月の数日分しか残っておらず、さらに翌年も8月の数日分しかない。その8月1日に漱石の『文学論』を読んでいることが記されている。それも大いに同調するところがあったとみえ、「われ近ごろ、誦すべき文なきに苦しめり、この書を繙いて一たび其の渇の癒やすを得たり」と吐露している。そして翌日には、

「文学論」をよみ了る、時代思潮の推移を説きし一篇は、我が国にて、かゝる問題をかく組織だちて論議せし始めなるべし、所論も公平なり
  津田左右吉全集 第26巻 日記二 明治41年8月2日(日) p.445
日記は、破棄されたのか、そもそも書かれなかったのか、分からないが、明治41年〜43年のものがない。次に日記が「再開」するのが明治44年3月7日なのだが、そこでは文体がそれまでの文語調からいきなり口語調の現代文へと一変する。さらに自分の呼称としてそれまでの「われ」を捨てて「おれ」を使った試みがある。とくに5月6日の日記はそれが著しい。
おれが人なかへ顔をだすことの嫌なのは自ら高く標置して世を冷眼に見下しているためでは無い、或は自ら大いにたのむ所があって、我は敢えて汝等の力を要せぬと威張るのでも無い、おれは、自己のライフが自己で満足するほど充実しているとは思わぬ、むしろ甚だ貧弱なりと思っている
  上記 日記二 明治44年(1911)5月6日 p.471
『神代史の新しい研究』を岩波書店から出版するのが1913年、『文学に現われたる我が国民思想の研究』が1917年だから、日記が欠けている時期は、思想的転換の危機の時代ではなかったかとわたしは想像する。そうしてそれを乗り切るきっかけを与え、助けもしたのが漱石の著作、とりわけ坊っちゃんと猫ではないかと思っている。日記には両者のタイトルは出てこないが、上っ面な文明の批評眼は猫にも坊っちゃんにも通ずるものがある。

たとえば、海軍省の赤煉瓦の建物や帝国座の建物を、お上りさんの老人たちが有り難がって拝んでいる姿をみて、文明の軽薄さをこう指弾する。

上流と都会の成り上がりものと、見かじり聞きかじりの出来る連中は、欧洲の文明を日本に移そうとする、しかし、全く性質のちがった欧洲の文明は根柢から日本人の趣味と感情に調和しない、(中略)ただ欧洲の事物を模倣するのである、帝国座の醜悪な建築が東京の真ン中に威張って立っているのも此の故である、マアテルリンクの翻訳劇がマアテルリンクの作なるが故に上場せられるのも此の故である、しかし、彼等は兎も角も、かうして造った仮装世界に生活している、地方のもの、下流のものに至っては、ただ遠く離れたところから此の仮装世界をながめてオッタマげるに止まる
  上記 日記二 明治45年(1912)5月3日 p.515
漱石は1867年の生れ、津田は1873年。両者はほぼ同じ時代の空気を吸っている。そうして二人とも、日本の文明開化の中の馴染めない要素に、うつ病の瀬戸際まで追い込まれつつ、文学と思想の側から切り込んでいった。

坊っちゃんは、そんな漱石の金字塔ともいえる俗語文学作品として出現した。そこで漱石は日本文學史上はじめて、「おれ」を文学語に押し上げたのだ。その意味は、ひとり文学、文芸にかかわることではない。津田が批判してやまない仮装世界にも関係している。

試みに、国語辞典で「おれ」の見出し語を捜してみるといい。手元の電子辞書の「広辞苑第五版」はこう記述している。

おれ【己】(代)
 1.(二人称)相手を卑しめて呼ぶ語。おのれ。(以下古事記の用例が続くが省略)
 2.(一人称)男女ともに、また目上にも目下にも用いいたが、現代では主として男が同輩以下の者に対して用いる、荒っぽい言い方。「俺」「乃公」とも書く。(以下用例が続くが省略)
この定義は第三版(1983年)から変わっていない。広辞苑よりももうすこし実用を狙った岩波国語辞典はこうだ。
おれ【俺】(代)話し手を指す語。主として男が同輩以下の者に対して使う、くだけた、または乱暴な言い方。明治時代ごろまでは、女が使うこともあった。
  岩波国語辞典 第6版 2000年 岩波書店
この説明文には、日本語感覚のズレだけでなく、どこかいらだちさえ覚える。というのも、

 ひとつ。わたしの郷里では、昔も今も、人の呼び方、つまり呼称詞、は一人称は「おれ」二人称は「おまん」である。これは男も女も親しい間柄の呼び方だ。
 ふたつ。東京を郷里とする住民であっても、夫婦の会話で、夫が自分を「おれ」と呼ぶのは普通と思うが、この辞典だと、それはくだけているか、妻を見下している、ってことか? それとも世の夫どもはみなボクちゃんかい?
 みっつ。両方の辞書ともに、「目上」「同輩」「目下」という上下関係、ランク付けを持ち出しているが、これは修身の「ベンキョウセヨ」の目線ではないか。
 よっつ。上下関係を持ち出すことで、「おれ」の使い方を指図している。なんで国文学者が、日本人の日本語につべこべ口出しするか。
 いつつ。辞典編集者は坊っちゃんの読者を想定もしなかったのか? そもそも坊っちゃんを読んでいるのか?

なぜこんなおかしな定義になっているかというと、両辞典の記述は同じ岩波の「古語辞典」(1974年)からそっくりコピーされているせいなのだ。つまり、死んだ日本語としての古文を読み解くための説明文を、生きた日本語を話している現代人に適用しようとしているから無理がある。現代日本語の辞書なら編者は、私たちが今話している、使っている日本語を採録しないとならないのに、その逆をおこなっているのだ。これは辞典編集者が「国文」学者であって、「日本語」の研究者でないことに起因している。

文句だけ並べてもしょうがない。ではどう書けばいいか。

おれ 【呼称詞】口語体の一人称単数。「邪魔者というのはおれの事だぜ。失敬千万な」(夏目漱石 「坊っちゃん」)
今でも思い出すが、東京に来て「おれ」を「ボク」に変えた時は歯が浮いたものだった。「僕」はあくまでも学校での国語、英語の文章用語に過ぎなかった。今の学校の現場は知らないが、わたしの時代の英文和訳、つまり英文の読み下し、では一人称代名詞は「私」か「僕」、二人称は「君」か「あなた」で、べつだん違和感がなかった。日本語にはそもそもヨーロッパ語でいう人称代名詞がないのだが、ヨーロッパ語をかじるとまず文法を知る、すると人称代名詞に相当するものを日本語の中で捜すことになる。英文和訳とは、すなわち仮装世界の勉強だ。もしも生徒が広辞苑を真に受けようものなら、「先生、<私は猫です>を英語で目下の相手に言うときはどうなりますか?」と英語教師に問うことになる。おれはねこだぜ。

序でにいうと、坊っちゃんには他に呼称詞の三人称単数として「大将」が顔を出す。これもなつかしい。わたしの世代は使わなくなったが、郷里の父や伯父がこう呼ぶときのユーモラスな雰囲気は子供ながらおかしかったものだ。

津田左右吉が「おれ」を使うのはもちろん日記の中だけで、公には以後は「私」「僕」さらに後年、漢語漢字をできるだけ使わないようにして「わたくし」を使っているが、文体の平明さ、明晰さ、そして考え方の基調は、日記で「おれ」を使いだしたころとかわりがない。

日本の儒家は後世まで日本人の、即ち彼等自身の、実際の生活とは無関係に、書物の上の知識なり思想なりを弄んでいたのであり、もし日本人の生活に関係させてそれを説かうとすれば、矛盾と撞着とにみちた牽強付会の弁をなすか、然らざれば儒教を歪曲しその精神を放棄するかの、外はなかった。
  津田左右吉「東洋思想とは何か」『シナ思想と日本』岩波新書 1938年 p.161
津田がここで儒教批判をしているのは、「東洋文化といふものの宣伝者はいはゆる西洋文化を尊重することを非とするやうであるが」(p.198)というように、当時のイデオロギー統制の動きが論文執筆のきっかけになっていることと関連している。だがその一方で、中国と日本の文化は別物であるということを強調するあまり、中国が日本から学ぶことがなかったということの論旨がやや脱線気味になってしまった。
なほ一つ考へて置くべきは、日本とシナとの間に長い年月にわたっての交渉がつづいたにもかかはらず、日本の文物は少しもシナに入っていない、ということである。(中略)中華を以て誇っているシナ人は、日本を夷狄としてのみ視、中華に学んでいるものとのみ思ひ、日本が独自の文化を有っていようとは考へず、(中略)事物に対する探求心が乏しく感受性も鈍いのがシナ人である。もっともこれには、シナ人が日本の文化を知らず、それを知る機会が無かったからといふ理由もある。(174)
儒教とそのテキストとしての漢文漢学を排斥してやまなかった津田左右吉だが、儒家と一般中国人が混同されているフシがある。おそらくは、津田自身が中国人と直接交流する機会がなかったためと思う。日本留学は中国が初めて日本と文化的に交渉しあった歴史的できごとだったが、その留学生を教えていたのが事実だったとしても、松本亀次郎のように、生の中国人の中に中国文化を認める機会は津田左右吉にはなかったようだ。しょせん文化とは、その元でどんな人間が育つのかを意味するのでなければ、およそ議論してもしょうのない概念だからだ。



5.虚子の漱石原稿改ざん

坊っちゃんは俗語文学で、落語や講談調の語り口にリズムがあって目で読んでも楽しい。けれど、旧かなづかいでは若い人には読みにくいだろう。現行岩波文庫版を見てみると現代かなづかいになっている上に、プツシング、ツー、ゼ、フロントは『プッシング・ツー・ゼ・フロント』だ。、を・に変更するのはいいが、『』まで加えるのは、親切が過ぎて、口語体の感じを削いでいないでもない。

しかし、この文庫版は「雪駄」のままだ。編集者によると、底本は1984年の漱石全集本だという。ふーん、どうして1994年版に依拠した訂正をほどこさないんだろう? テキスト校訂作業そのものが足踏み状態か。

坊っちゃんにテキスト問題や誤植問題があろうとは想像したことがなかった。それで調べていくうちに、ちょっと根の深そうな問題らしいと分かってきた。それは、漱石自身が雑誌発行人の高浜虚子に、松山方言の修正を依頼したところ、漱石の了解なしに、方言修正の限度を越えた原稿の改ざんが行われていた、という事実があった。その概要は

「漱石の自筆原稿『坊っちやん』における虚子の手入れ箇所の推定、ならびに考察」
渡部江里子 『漱石雑誌小説復刻全集』三巻収録
から伺うことができる。そこから、坊っちゃん誕生の舞台裏の諸事情が見えて来る。

まず、坊っちゃんはその完成度から、よほど時間をかけて書き上げたものと思っていたが、そうではなくて、わずか10日足らずで仕上げたものという。

漱石が『坊っちやん』を書き始めたのは明治三十九年三月十五日、あるいは十七日頃で、「ホトヽギス」編集者の虚子が原稿を受け取ったのは三月二十五日頃と推定されている。つまり漱石は『坊っちやん』を十日足らずで書き上げたことになり、かなりの速筆であったといえる。漱石は雑誌の発行が遅れることを非常に気にしており、なんとか四月一日の発売日に間に合うように執筆を急いだはずである。(渡部江里子 上掲)
したがって、原稿には誤字脱字やかな送りの不統一などは当然あっただろうが、漱石に校正刷りは回ってこなかった。印刷された雑誌を受け取るや、虚子に手紙を書いている。
明治三十九年四月一日(封書)
 拝啓 雑誌五十二銭とは驚いた。今まで雑誌で五十二銭のはありませんね。それで五千五百部売れたら日本の経済も大分進歩したものと見てこれから続々五十二銭を出したらよかろうと思います。その代りうれなかったらこれにこりて定価を御下げなさい。『中央公論』は六千刷ったそうだ。『ほととぎす』の五千五百は少ないというて居りました。来月もかけとは恐れ入りましたね。そうは命がつづかない。来月は君の独舞台(ひとりぶたい)で目ざましい奴を出し給え。雑誌がおくれるのはどう考えても気になる。三十一日の晩位に四方へ廻して一日から売りたかったですな。校正は御骨が折れましたろう多謝々々。その上傑作なら申し分はない位の多謝に候。『中央公論』などは秀英舎へつめ切りで校正しています。君はそんなに勉強はしないのでしょう。雑誌を五十二銭にうる位の決心があるなら編輯者も五十二銭がたの意気込みがないと世間に済みませんよ。いやこれは失敬。(中略)
今月は『新声』でも『新潮』でも手廻しがいい。みんな三月中に送って来た。これを見ても『ホトトギス』は安閑として居てはいけない。然しそれは漱石の原稿がおくれたからだと在っては仕方がない。恐縮。
  漱石 虚子宛ての手紙
その中で、雑誌が52銭に値上げされていることに驚き、その値段に見合う校正がされていない(誤植が多い)ことに不満の意を告げている。52銭がいかなるものかは、ベストセラー雑誌『成功』が10銭だったこととから容易に想像がつく。その『成功』は発行部数1万5千を「豪語」していたのだから、ここでほととぎすの5千5百という数字の大きさが分かる。なのに、校正が雑だ、と嘆いている。じつは校正ミスや誤植もあるが、
(漱石は)その出来栄えには不満そうである。確かに初出誌「ホトヽギス」を見ると誤植が多いが、漱石は虚子が方言以外の箇所にも手を入れたことを知らないので、虚子による変更も誤植だと受け取ったのではないだろうか。 (渡部江里子 上掲)
ちなみに、漱石がいう「勉強」とは、今で言う勉強ではなくて、無理をする、というもともとの意味だ。

さて、漱石の文章に勝手に手を入れてはばからない「ホトトギス」編集者高浜虚子とはいったいいかなる人物か。幸いというか不幸にもというべきか、「漱石氏と私」と題した回想記が青空文庫でだれにでも読めるようになっている。はじめ、漱石がホトトギスに猫や坊っちゃんを掲載したいきさつなどが記録されているかと期待した。ところが、それを読み出したわたしは、すぐさま異様な内容と書き方に違和感を覚えた。

まず、漱石を「漱石氏」と呼び、かつタイトルに「私」と並べていること、師である子規を「居士」と死人呼ばわりしていること。「おれ」の広辞苑解釈じゃあないが、「目上、対等、目下」の位置づけをまさぐるような匂いを感じ取るのはわたしだけではないだろう。じっさい漱石についてなにを回想するのかと思ったら、さっそく冒頭部分、松山に赴任していた漱石を訪ねたときのことをこう綴っている、

その単衣の片肌を脱いで、その下には薄いシャツを着ていた。そうしてその左の手には弓を握っていた。漱石氏は振返って私を見たので近づいて来意を通ずると、「ああそうですか、ちょっと待ってください、今一本矢が残っているから。」とか何とか言ってその右の手にあった矢を弓につがえて五、六間先にある的をねらって発矢と放った。その時の姿勢から矢の当り具合などが、美しく巧みなように私の眼に映った。それから漱石氏はあまり厭味のない気取った態度で駈足をしてその的のほとりに落ち散っている矢を拾いに行って、それを拾ってもどってから肌を入れて、「失敬しました。」と言って私をその居間に導いた。私はその時どんな話をしたか記憶には残って居らぬ。ただ艶々しく丸髷を結った年増の上さんが出て来て茶を入れたことだけは記憶して居る。
  高浜虚子 「漱石氏と私」 青空文庫 (下線は引用者 以下同じ)
えーっ、こ、これが、坊っちゃんの原稿に手を入れた編集者の書いた文章か、と呆れてしまった。文章の上手下手ではない。いったい、なにを文章にして読者に伝えようとしているかという、文章以前の疑問が湧いて来るのだ。弓の練習風景を事細かに描写するかとおもえば、肝心の訪問目的である面談については記憶にない、と言う。しかも「丸髷を結った年増の上さん」のことは覚えている、と言う。ここで言外に含んでいるのは、漱石が話したことは、駆け足と比べても、上さんのお茶と比べても、つまらない、記憶に残るものではなかった、ということになる。もしも読者が虚子の崇拝者で、虚子がなんに感心し、なにを記憶しているか、ということを有り難く拝聴したいんなら、こういう文章もあり得るだろう。だが、関心の対象が漱石のほうである読者なら、こんな文章を読まされるのはたまったものじゃない。「厭味のない気取った態度で」という作文に、描写というよりも、ためにする形容、とでもいうべき意図を読み取る読者も多いだろう。

そもそも漱石の友人でもある子規が創刊した雑誌『ホトトギス』は、漱石の猫によって売り上げが飛躍的に伸びて、商業出版に肩を並べるようになった雑誌である。虚子宛の漱石の手紙には、なんとか売り上げを維持させてあげたいという漱石の気遣いが出ている。これは坊っちゃん執筆の2ヶ月前の手紙。

明治三十九年一月二十六日
二月の『ほととぎす』に何か名作が出来ましたか。僕つらつら思うに『ホトトギス』は今のように毎号版で押したような事を十年一日の如くつづけて行っては立ち行かないと思う。俳句に文章にもっと英気を皷舞して刷新をしなければいかないですよ。(中略) 小生余計な世話を焼いて失敬だが『ホトトギス』が三、四千出るのは寧ろ異数の観がある、決して常態ではない。油断をしては困る事になると思います。
これから伺えることは、3、4千という数字は売れ過ぎだ、ということだから、猫を連載する前はどれほどだったか、想像に難くない。そうして、猫とはまた違った英気ある作品として、漱石が坊っちゃんを構想したのではないか。

そんな漱石にたいして、この「漱石氏と私」はなんと無礼な記述に満ちていることか。坊っちゃんの翌年(1907)漱石が朝日に入社したことについて、その言い様がまたふるっている。

朝日新聞から社員として傭聘するという話が始まって、遂に氏は意を決して大学講師の職を辞して新聞社員として立つ事になった。同時に氏は素人の域を脱して黒人(くろうと)の範囲に足を踏ん込んだ事になったので、今までは道楽半分であった創作が今度は是非とも執筆せねばならぬ職務となった。
虚子は師や恩人を「素人」呼ばわりするのがクセらしく、子規にたいしても平然と、
居士の、南無大師石手の寺や稲の花 などという句はこの時に出来た句であるそうな。今から見ると写生写生といいながらなおその手法は殻を脱しない幼稚なものであるが、とにかく写生ということに着眼して、それを奨励皷舞したことはこの時代に始まっているのである。
さりげなく「幼稚な」という語句を挟むのだが、幼稚ではない読者は、すぐにその下心を見破ったことだろう。

こどものころ、わたしの祖母は、自慢することを、よく「我が身を誉めるくそガラス」と戒めたものだ。カラスも今や賢くなって、我が身を誉めてはかえって反感を買うと承知しているので、その代わりに、自分を偉大な人物と並べることで同格であるかのように振舞い、また師さえその死後に軽んずることで、自分を大きく見せようとする。

師の墓に とまりてくそする とほゝぎす
漱石が生きている間は書けるはずもなかった「漱石氏と私」は、漱石が死ぬ(1916年12月9日)のを待ち構えていたように、翌年のホトトギス2月号から連載が始まった。他に居合わせた人がいない出来事とあっては、好き放題脚色ができる。死人に口なし。逆に、他に同席者、証言者のいた場面については、黙して語らず。

高浜清がこのような異常人格者であることを思うと、漱石が坊っちゃんの中で下女に、よりによって清(きよ)という名前を与えたことを、ひょっとして自分が見下されたものと受け取り、一物含むようになったのかも知れない。

そんなトホヽギスが君臨していた家元俳句界は戦後、桑原武夫の論文「第二芸術 現代俳句について」(『世界』1946年11月号)のストレートパンチを喰らった。当時の俳壇で大論争になったが、虚子は黙したままだった。素人の作句にも劣る、と自句が俎の上に載せられているにもかかわらず、だ。大量の目撃者を前にしては言葉に詰まったものと見える。かわりに弟子たちが防戦するも、逆に桑原の指摘を裏付ける醜態を晒すことになった。

とほゝぎすの 墓守ごくろう 野だがらす
まあ、いまさら虚子についてこれ以上立ち入るのは、自分でも不愉快だ。よそう。わたしの母は俳句が趣味で、虚子とは関係のない全国結社の同人にもなっている。いろんな句会やら吟行会で飛び回って、歳を取る暇もないほど忙しがっている。作句も吟行、つまり旅とセットになっているから楽しそうだ。そういえば、仲間うちで連なって走るバイクツーリングも、おじさんたちの吟行会のようなものだし(斎藤美奈子)、バイク乗りは「かっこつけに終始せにゃならぬ」「50ccはナナハンに卑屈になるランクづけってものだってある」(佐野洋子)と言われれば、なるほどこんな大排気量のブランドバイク志向とて、もとをただせば、出世主義からくる上昇志向のはけ口だったのかもしれんぞな、もし。

笹飴と漱石の縁について書くのを忘れて居た。漱石が胃潰瘍の治療で東京の病院に入院して居たとき、見てくれたのが越後の高田出身の医師だった。その後高田に帰って開業した医師は文学趣味もあったらしく、漱石との交流も続き、毎年笹飴を送ってくれた、と云う事実が分かった。けれど、残念なことに、それは坊っちゃんを書いたずっと後のことだ。だから、坊っちゃん執筆時の漱石と越後の笹飴との関係は、いぜん謎のまま残って居る。



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