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 (2012/3/30) 
「ぞっとした」引用手法の「第3章」 〜「民間事故調」報告書批判 その3〜

報告書の「わずか400ページという薄さが意外」だったと書いたのは、事故の真相究明なんだから、300人全員でないにせよ、主立った当事者の証言はもちろん、そうでなくても新事実として重要な関係者の発言などは、インタビュー内容がそのまま資料として文字に書き起こされて付属しているものと思っていたからでした。2月28日の記者会見ビデオでも、質疑応答にこんなやりとりがありました。

<産経記者>
 とくに、かぎかっこ(注:引用符「・・・」のこと)が、
 関係者の話しことばが、いろいろ出てまいります。
 この話しことばにかんしては、発言なさった被調査対象者の方々は
 納得しておられる表現なんでしょうか?
 というのは、それぞれの発言者の方々が当事者としてこれをご覧になったとき
 「いや、わたしはそうは言っていない」
 ということを言ってくる余地が今後のこっているのか、お聞きしたい。
 <北沢委員長>
 これはヒアリングに応じてくださった方々に、
 オンレコの部分とオフレコの部分をはっきり分けて
 ヒアリングをしております。
 ですから、オンレコの部分でお話しになられたことは
 そのままクォテーションマークをつけて引用する、
 ということがあり得ます。
 これはマスメディアの通常のやり方と同じで、
 オンレコであれば、そのことばは公の場で述べてしまったんだ、
 と、そういう解釈です。
『2.28福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)記者会見』new 1:32:00〜
ところが実際に報告書を手にしたら、かんじんのインタビュー取材は、本文の中でコマ切れに引用されているだけで、その人がどんな問いにたいして答えたものなのかさえ、分からなくなっているところが気になりました。

あらためて、記者会見直後のメディアの報道ぶりを検証していたら、さっそく、この「かぎかっこ」が問題を起こしていたことが分かりました。それは、「ぞっとした」ということばが波紋を広げた証言。

(菅首相は)バッテリーが必要と判明した際も、自ら携帯電話で担当者に連絡し、
「必要なバッテリーの大きさは? 縦横何メートル?」と問うた。その場に同席
した1人はヒアリングで「首相がそんな細かいことを聞くのは、国としてどう
なのかとゾッとした」と証言したという。
『菅首相が介入、原発事故の混乱拡大…民間事故調』
読売新聞 2012年2月28日05時02分
このメディアの報道について3月2日、その名前を明示されなかった「同席した1人」である当の本人、内閣審議官の下村健一氏が、「意味が違って報じられている」とツイッターで異議を唱えた。ツイッターに縁のないわたしが最初に見つけたのは、それを3月5日に取り上げていたこのブログ記事。
『「ぞっとした」にぞっとした話』
BLOGOS 山口浩 2012年03月05日 00:07 
報告書を読んだわたしは、たしかに「ぞっとした」という記述に記憶がある。けれど、マーキングもしなかったので該当ページを探すのに手間取った。メディアの伝える記事からは、いったいどんなコンテクストの中での証言なのか読みとれない。さらにメディアの記事にたいして反応するネット記事の中には、その間違いを増幅しているだけのものさえある。報告書が出版された頃には、あらためて本文に照らして検証しようという動きもない。

問題の引用句が使われたパラグラフは、報告書の第3章「官邸における原子力災害への対応」にある。

他方で、首相自身による細かな技術的判断や情報収集過程への関与を、過剰な
マイクロマネジメントとして批判する声もある。例えば、11日夜の電源車の
手配に際して、(中略)「どこに何台あるか私に教えろ」と秘書官らに指示を
行っていた。(中略)「必要なバッテリーの大きさは? 縦横何m? 重さは? 
ということはヘリコプターで運べるのか?」などど電話で担当者に質問し、
 居並ぶ秘書官らを前に自身で熱心にメモをとっていた。こうした状況に、同席者
の一人は「首相がそんな細かいことをきくというのは、国としてどうなのかと
ぞっとした」と述べている。(P.109)
どう読んでも、マイクロマネジメントにのめり込む首相にたいしてぞっとした意味にしかとれない。これにたいして下村氏はどう真相を語っているかというと、
<3月2日>
民間事故調が一昨日公表した、原発事故の検証報告書を巡る報道…ツマミ喰いは
 各メディアの自由だけど、《正しく認識せねば、正しい再発防止策は導けない》
という意味では、この全体イメージの歪み方は本当にマズい。同事故調に全面
協力した者の1人として、明日以降、順次ここでコメントしたい。

<3月4日>
 まず、大きく報道された、《電源喪失した原発にバッテリーを緊急搬送した
際の総理の行動》の件。必要なバッテリーのサイズや重さまで一国の総理が
自ら電話で問うている様子に、「国としてどうなのかとぞっとした」と証言した
“同席者”とは、私。但し、意味が違って報じられている。
 私は、そんな事まで自分でする菅直人に対し「ぞっとした」のではない。
そんな事まで一国の総理がやらざるを得ないほど、この事態下に地蔵のように
動かない居合わせた技術系トップ達の有様に、「国としてどうなのかとぞっとした」
のが真相。総理を取り替えれば済む話、では全く無い。
 「これどうなってるの」と総理から何か質問されても、全く明確に答えられず
目を逸らす首脳陣。「判らないなら調べて」と指示されても、「はい…」と返事
するだけで部下に電話もせず固まったまま、という光景を何度も見た。これが
日本の原子力のトップ達の姿か、と戦慄した。
下村健一ツイート  
事実の解明のためのインタビューのはずが、このような恣意的な引用に利用されていることに、戦慄する。

いったい執筆者はどんな有識者なのかと、また403ページのワーキンググループ・リストを見る。すると、第3章を担当したのはまたも3人。ひとりはやはり大学教授、あとの2人はふたりとも弁護士。この教授の名前をキーワードに検索をかけると、自身が執筆者と名乗って、下村氏へツイッターで返信していた記録だけが見つかった。

<3月5日>
民間事故調で官邸部分を担当しました。官邸を研究する政治学者として、石原
信雄さんや古川貞二郎さんが官邸にいたら、展開は違ったろうと想像します。
信田智人ツイート  
なんのこっちゃ、と思う。わたしは「官邸研究」論文を読まされていたのか。有識者委員会も、財団法人日本再建イニシアティブも、だんまりを決めこんで、いまだこの件について釈明はない。

そもそもこの第3章は、引用のしかたとその脚色に特徴がある。いくつか拾い上げると、

・いろいろな懸念を伝えたかったが、菅首相は「俺の質問にだけ答えろ」とそれを許さなかった。(p.79)
・隣に座った武藤栄東京電力副社長に「何故ベントをやらないのか」と初めから詰問調で迫った。(p.79)
・数ヶ月後にその事実を知った枝野長官は「えっ」と驚いている。(p.80)
・班目委員長は「あー」と頭を前のめりに抱えるばかりであった。(p.81)
・電話を切った海江田経産相は「これは大変なことになる」と背筋が凍る思いがした。(p.84)
・首相はそこで「そんなことないんですね」と言うと、清水社長は消え入るような声で「はい」と短く答えた。(p.86)
・清水社長はちょっと驚いた顔をしたが「はい、わかりました」と答えた。(p.86)
・右往左往した当時の官邸の様子を振り返り、「一つのボールに集中しすぎた」と子供のサッカーにたとえてみせた。(p.94)
上記p.79の2例についても、下村氏はツイートしている。
<3月9日>
 報告書P.79◆福島の会議室で東電副社長が、ベントできぬ理由を「電力が無くて
電動弁が開けられないと説明すると、(菅首相は)『そんな言い訳を聞くために来た
んじゃない』と怒鳴った」…確かに、Whyに答えたら“言い訳するな”と叱られた、
というのは理不尽にも見えるが⇒
 やはりあの場面は、「電力が無くて電動弁が開きません」オワリ、じゃなくて
「だから次は○○という方法を試みます」と続けるのが、責任ある者の答だろう。
あの緊迫の数日、前者のような、次の一手の提示を伴わない単なる「出来ません」
発言を、どれだけ技術系から聞かされたか…
下村健一ツイート
この延長線に「ぞっとした」が来る。これは、研究論文というより、週刊誌の記事の手法を連想させるが、同時に、裁判で検察が罪状を読み上げる冒頭陳述書にも似ている。裁判では、弁護側も検察側も、それぞれの結論が先にあって、それをバックアップする証拠だけを援用し、調書を都合のいいように引用する。都合の悪い証拠は隠すのだ。どうもこの第3章は、手伝った弁護士さんの職業病が出たとしか思えない。

冒頭述べたように、インタビューはそのまま資料としてテキストに起こして付録にすれば良かったのだ。もっとも、最初からインタビューではなくて、ヒアリング、つまり調書をとる目的だったのかも知れない。せっかく事故調に協力した善意も「公の場で述べてしまった」のではなくて、密室での聞き取りの対象になってしまった。

いずれにしろ、最初から設定されていたこの章の役割は、事故後の官邸の対応がいかにまずかったかを印象づけることだったのだろう。メディアが軽卒に「かぎかっこ」のエサに食いついたのも、当然のことだった。

(続く)



 (2012/3/27) 
再稼働問題で早くも綻ぶ「第8章」の論理 〜「民間事故調」報告書批判 その2〜

「民間事故調」による福島原発事故「調査・検証報告書」については、報告書の全容が伏せられたまま、扇情的にメディアがその内容をつまみ食い報道したために、全文を知るよしもない国民はただメディアが伝える内容に反応するしかありませんでした。ところが、いざその報告書の実物が書店に並んでしまうと、ネット上で話題にするケースはあまり見かけません。すでにブロガーも反応し終えたということでしょうか。3月28日の記者会見では印刷出版の予定なし、と断りながら、あまりの反響で急遽3月11日に出版となった、という超短納期は印刷出版業界ではまずありえない。

いかに記者会見によるメディア誘導が巧妙だったか、みごとというほかない。

3月20日に最初の批判的コラムで書いたように、この報告書を特徴づけているのは、菅総理の言動批判でも、東電の撤退報道の真偽でもなく、じつは第3部の「歴史的・構造的要因の分析」であり、とりわけ、事故の「遠因」つまり責任は安全神話にあり、と断じた「第8章」である。前回その一部だけ引用した章の結語は、こうなっている

原理原則に基づくイデオロギー的反対派の存在が「安全神話」を強化する土壌を
提供したことを考えると、建設的な原子力安全規制を提起する「批判的専門家
グループ」の存在は不可欠である。原子力政策が今後どう展開しているにせよ、
国、規制官庁、独立行政法人、電気事業者が自らの安全規制への責任を再認識し、
安全規制ガバナンスの見直しを進めるしか、原子力の安全を確保する方法はない。
(第8章「安全規制のガバナンス」 第6節「まとめ」 321ページ)
わかりやすい日本語に翻訳すると――反対派が安全神話の元凶、かわりに「批判的専門家」が必要、原子力ムラは自分の責任で安全規制を見直して原発を続けろ。

民間の独立した調査団という看板を掲げるために、執筆者、つまり「ワーキンググループ」のメンバーには無名の若い研究者を起用したらしいが、そのメンバーリストが巻末(403ページ)にある。なぜか名前の記載を辞退したメンバーもいる、との断り書きがあるが、いちおう21人の名前と担当した章が明記されている。

それによると、第8章を担当したのは3名。ひとりは大学教授、そしてあとの二人はフリージャーナリストで、それぞれ元朝日新聞記者、元週刊文春記者、とある。そして、この教授が第3部全体の「パートリーダー」であり、第8章の執筆者である、と自身のブログで今回の「民間事故調」での仕事ぶりを開陳している。

ところが折も折、原発の「再稼働」が焦眉の問題になったので、それに言及せざるを得なくなった。それが、皮肉なことに「第8章」そのものの「検証」の場となっている。まず、3月8日、報告書発表直後でメディアで盛んに取り上げられた時点でのコラム。

私が担当した第3部でのメッセージは、事故の背景には「安全神話」に基づく安全
規制ガバナンスの未熟さがあり、(中略)「原子力ムラ」という利益共同体に対する
建設的批判ができないような状況・文化の問題があった、ということである。(中略)
このような状況を改善することなく、そのまま再稼働に向かおうとしている神経は
理解できない。
『私にとっての民間事故調』
BLOGOS 2012年03月08日 09:14
一読、再稼働を批判しているように受け取る読者もいるはずだ。はたしてそうか?

本人は「建設的批判」が必要だという自説の裏付けのつもりなのだ。けれど、まったく論理が逆さまであることに気づいていない。どんなに批判があろうとおかまいなしに原子力ムラは原発推進を強行してきた、という事実が先にあるのであって、そういう事実認定の上にたてば、「事故の遠因は建設的批判の欠如」などという結論は本末顛倒でしかない。つまり、いま現に報じられている再稼働強行の動きは、自説の例証ではなくて、反証なのだ。

事実に依拠しない執筆姿勢は、国会事故調に先んじて報告書を出した背景にも顔を覗かせている。

政府事故調も最終報告は夏までかかるとしているし、国会事故調についてもいつ
報告書が出るかはわからない状態である。東電に至っては自らの責任を十分に認識
しない中間報告しか出していないし、保安院にしても、自らの対応を、その組織文化
に至るまで振り返って反省しようとしていない。
 このような中で、民間事故調が報告書を出し、問題の根源を直接的な原因だけで
なく、中間因・遠因に至るまでカバーし分析したことの意義は、手前味噌だが、
大きいと思う。
(同上
ここではなにを言っているんだろう? 国会事故調に先駆けて報告書を出したからには、国会事故調はもはや必要ない、という意味なのか? もちろんそうではない。国会事故調はとうぜんながら、事実そのものの調査を行っている。ということは、まだ事実が解明されていないのだ。民間事故調の意義は、だから、事実の調査検証なんかではなくて、「中間因・遠因に至るまでカバーし分析したこと」だ、と言っているのである。すなわち、事実精査などなくたって思いどおりに書けた第3部、とりわけ第8章の論評・提言に意味がある、ということ。

そして23日のブログでは、「建設的批判」のないまま原子力安全委員会が大飯原発3,4号機のストレステストの結果を了承した5分会議について触れ、「自主・民主・公開」の「理念が形骸化した」ことを、「怒った傍聴者が野次を飛ばしたり、机を乗り越えて意見を言おうとしている姿」に結びつけて、こう述べている。

結局、反原発運動が一定の支持を集めることには成功しても、原子力政策の大きな
流れに掉させる状況にはならなかった。また、過激な言説を導入することで、
「賛成か反対か」という二元論に陥ってしまい、建設的な批判をすることが難しい
状況になった。
『原子力安全委員会における「公開」について』
BLOGOS 2012年03月23日 23:14
ようするに、彼の言う「建設的」批判とは、原発を続ける、ということを前提にした意見を指しているようだが、どうやらその裏には「賛成か反対か」という議論を排除する意図があるものか。3.11を境に世界は変わったのだ、ということが分からないようだ。フクシマの後、ドイツはすぐに脱原発に舵を切った。イタリアは原発の賛否を問う国民投票をおこなった。国民投票とは「賛成か反対か」そのものである。すると、イタリアやドイツは「賛成か反対かという二元論に陥った」愚かな国ということになる。民間有識者のグローバル度(井の中度?)に唖然とする。

以上紹介したのはブログで発表された長い論文のほんの一部だが、いくら個人のブログとはいえ、文章としてのおかしさが目立つ。報告書の作文がいくらかましなのは、文筆を生業とするジャーナリストを二人もつけてもらったせいかも知れない。せっかく報告書の核となった「第8章」だが、それを担った執筆者のネット発言から見えるのは、報告書の発表がメディアで仰々しく取り上げられて嬉しくなったのか、つい舞い上がっておしゃべりになった、無名の学者の緩んだ論理だ。

(続く)



 (2012/3/24) 
原発再稼働、大飯原発、古賀茂明氏「テレ朝=ワイド!スクランブル」降板騒動

昨日、関西電力の大飯原発を視察したばかりの古賀茂明氏(大阪府市統合本部特別顧問)が、テレビ朝日『ワイド!スクランブル』のコメンテーターを突然降板させられることになったとのニュースが報じられていました。

『古賀茂明さんが『テレビ朝日ワイド!スクランブル』を突然降板させられる』new
2012.03.23 11:30:00  東京プレスクラブ
ところが、視聴者からテレ朝に抗議が殺到して、今日になって降板は撤回されたといいます。
しかし3日後の24日、降板は無くなった、と報告した。「ツイッター」を見た
視聴者からテレビ朝日に抗議が押し寄せたからだという。この降板騒ぎについて
古賀さんは、財務省や電力会社、民主党の圧力があったことをほのめかせている。
『古賀氏「ワイド!スクランブル」降板騒ぎ テレビ朝日に視聴者から抗議殺到で「撤回」?』
J-CASTニュース 3月24日(土)15時3分配信
今全国的に問題となっている原発の「再稼働」問題。3月19日放送の『たね蒔きジャーナル+小出裕章』3月19日放送分newで 明快に解説されています。(5:10 から)
<水野アナ>「原子力安全協定」というのは何かといいますと、
 自治体と原発を持つ電力会社などが結ぶものなんだそうで、
 原発の運転を、停止させるというような、その停止を求める、
 権限もあるんだそうですね。

 で、今、全国で原発の再稼働をどうするかってのは焦点ですから、
 地元が同意しないと再稼働できない、という条件、ということは、
 この「地元」というのがどこからどこまでの自治体を含むのか、
 非常に大きな問題かと思います。
 これまで、「原子力安全協定」を電力会社と結んでいたのは、
 原発が「立地」している、そこにあるという、自治体だけだったんですね。

 で、福島第一原発の事故を見ますと、
 じゃあその「地元」の範囲は、原発が「立地」している自治体だけでいいのか、
 どうなのか、というのがひとつの問題点となって浮かんでいるかと思います。
 小出さんはどんなお考えでしょうか。

<小出> たとえば、福島第一原子力発電所の場合には、
 大熊町、双葉町というような町に立地していたわけです。
 ですから、再稼働するということになっても
 大熊町がうんと言わない、双葉町がうんと言わなければ
 もちろん、できないことになっているわけですが、
 東京電力としてはその2つの町に関しては、
 お金を山ほどばらまいて、
 もう反対することの力もないような町にしてしまっているわけですから、
 いつでも、好きなようにできるということでやってきたわけです。

 しかし、事故が起きてしまえば、
 飯舘村というような、
 日本一美しい山村だと認められた村、
 原子力発電からは何の利益も得てこなかったような村
 までが全村離村になってしまうというようなことに
 なっているのです。

 ですからほんとうであれば、
 ちゃんとそういう村々の意見も聞かなければいけないわけですが、
 電力会社としては自分がやりたいように、やれるように、
 金で操れる範囲というのは局限化したいという、
 そういう思惑で動いてきたのだと思います。
お金を山ほどばらまかれて、あるいは「地位」と引き換えに、反対しようもないほど取り込まれてきたのは、なにも「地元」住民だけでなく、これまで原発推進に加担してきた学者、研究機関、有識者、ジャーナリスト、タレントも、しかり。


 (2012/3/20) 
「独立」の看板に見え隠れする文科省の影 〜「民間事故調」による福島原発事故報告書〜

民間の有識者からなるという「福島原発事故独立調査委員会」が2月27日にその「調査・検証報告書」を発表し、翌28日には、日本記者クラブで記者会見を開きました。

民間なのに記者クラブ主催の会見って、どうなんだろうと思いながら、その様子をYouTube映像で見ておりました。壇上に並んだ有識者さんたちは原発反対の立ち位置ではないことは分かりましたが、300人におよぶインタビューを行ったというので、それなら、立場はどうあれ、その名のとおり政府・東電・行政から「独立」した調査なら、これまでメディアが報じてこなかった事実もいくらかは発掘しているだろう、と期待するところがありました。先日書店を覗いたら、3月11日発売というその報告書が1冊だけ売れ残っていたので、早速買い求めました。あれだけの事故の規模にたいして、わずか400ページという薄さが意外。

取材した事実をベースにした調査報告と期待しましたが、断片的な発言が引用されているだけで、期待ははずれました。事実に自ら語らせるのではなくて、すでに知られている事実から学ぶべき教訓を、有識者として「提言」しているようなトーンが貫いています。

報告のストーリーはこのようなものです―― 事故の経緯 → 対応がいかにまずかったか → なぜ事故の備えがなかったのか → 安全神話に責任あり。これが第3部までの構成で、最後の第4部は「グローバル・コンテクスト」と題されているが、重点を日米関係に置いた内容になっています。したがって第3部「歴史的・構造的要因の分析」がこの報告書をもっとも特徴づけています。その<概要>で冒頭、

すでに第1部、第2部で明らかにされてきたように、今回の事故は「備え」が
なかったことにより、防げたはずの事故が防げず、取れたはずの対策が取れな
かったことが原因とされている。本報告書では、事故の直接の原因に限定する
ことなく、歴史的・構造的な要因に着目し、なぜ「備え」が十分でなかったのか
を明らかにすることで、より深く事故の原因を調査し、問題の解決に向けての
道筋を明らかにすることができると考えている。(246ページ)
と述べて、分析のキーワードを「安全神話」とします。ここでいう「安全神話」が登場するコンテクストはなにかというと、「反原発運動の盛り上がり」のなかで、
反対派が訴える安全性への疑念を否定するためにも、原発の絶対的な安全性を唱え、
事故が起ることを想定することすら許さない環境が出来上がったといえる。(246ページ)
つまり「安全神話」を形成したのは、逆説的だが、じつは原発反対運動であった、というレトリックが持ち出されています。1970年代の「反原発のオピニオン・リーダー」として名指しされているのが2000年に亡くなった高木仁三郎。小出裕章の名が出てこないのは、恐くて出せないせいかも知れないが、じつは間接的に登場しています。
1973年に伊方原発の安全性を巡る訴訟が起こり、政府の安全審査の妥当性を巡って、
様々な争点で争われた。結果として1978年に出された判決は、原子炉設置許可は
政府裁量と認めたが、この裁判を通じて原発の安全性を証明するための様々な
「証拠」を持たなければならないという環境が作られた。(300ページ)
たまたま1月26日のこのコラムで『たね蒔きジャーナル+小出裕章』1月25日放送分newを取り上げていますが、
その小出氏がかつて関わった原発裁判では、論争では住民側が圧勝していたのに、
判決は国側の勝訴に終わりました。原発というものが、国の基幹政策であって、
裁判が独立性を保てない、と判断して、かれはそれ以降、裁判に関わることを
やめます。
その裁判がこの伊方原発訴訟new。(なお、「報告書」の執筆者は1審判決の1978年で訴訟が終わったような印象を与えているが、控訴する住民側の敗訴が確定したのは、1号機については1992年、2号機については2000年のこと)たね蒔きでの小出氏のインタビューと聞き比べると、有識者の「独立」の看板が怪しくなります。執筆者はこのレトリックに自己陶酔しているのか、くどいまでに繰り返す。
原理原則に基づくイデオロギー的反対派の存在が「安全神話」を強化する土壌を
提供した。(321ページ)
結局、原発事故の遠因は「安全神話」なり、というのが報告書の骨子になっている。産経の記事の見出しそのもの。
「安全神話」が原発事故の遠因 民間事故調報告書
SankeiBiz 2012.2.28 05:00
では、なぜあえて「独立」を装ってまでこのような調査報告を出版するのか? そこには文部科学省の影がちらついているように見えます。原発は政府、経産省、電力会社が中心になって進めてきたように言われるが、原発推進のための思想動員という意味では文科省の果たしてきた役割がはるかに重大だと思っています。安全神話普及の一翼を担った学者は一流大学の教授たちでしたが、事故という、だれにも見える事実の前では、その権威が崩壊してしまい、文科省会長が牛耳る国立大学会社のサラリーマンでしかなかったことがバレてしまいました。いままで原発推進派だったとしても、まともな学者であれば事故の現実を見て考えを変えるのが当然と、わたしなど普通人は思うが、報告書は「安全神話」に責任を押し付けることで、そして「安全神話」を育てたのは反対運動だという論理をひねり出すことで、傾きかけた文科省とその傘下の学者を支える、いわば、「つっかえ棒」を演じているように見えてしまいます。

報告書でそれを象徴しているのが、管轄しているSPEEDIを生かさなかったことと、学校児童に年間20ミリSvまで被曝を許した文科省の責任をそらすような記述。SPEEDIは災害直後に迅速に利用すべく開発されたシステム。担当者は不眠不休でデータを作成したと言われています。それがいっこうに出てこない。事故後の3月18日に開催された京大原子炉実験所の「第110回原子力安全問題ゼミ」では、今中哲二氏が「なんでSPEEDIが出てこないんだ」と涙声になって怒っている質疑応答の場面newがありました。 



 (2012/3/12) 
スティーブン・マリノフスキーのこと 〜楽譜が踊りだす〜

Music Animation Machine (MAM) の開発者、スティーブン・マリノフスキー(Stephen Malinowski 1953〜)はアメリカの作曲家、ピアニスト、インベンター、教育家、ソフトウエア開発者。楽譜を音楽に合わせてアニメーションCGにビジュアル化するMAMは、このマルチな才能があってこそ生まれたもの。アメリカの音楽界にはどうしてこのような型破りの天才・奇才が生まれてくるのか、目をみはることしばしば。

初めてYouTubeで作品を見たとき、たんなるDTMソフトの応用かしらと思ったら、すぐにアニメーションで「踊る音楽」を表現しているのだと直感した。音符みずからが歌い、踊っている。初期のアニメーションは横に伸びる棒グラフが主体だったが、その後、情感を表現するかのような効果まで備えるようになっている。

 

どうしてこのような音楽のアニメーションを考えついたのか、その発想からのヒストリーを自身で年表にしている。それによると、1974年のこと、バッハの無伴奏バイオリンソナタのレコードを聴きながら、楽譜を追っていたら、その音符たちがが音楽に合わせて踊っている幻覚(LSDのせいらしいが)を見た。それがはじまり。単独の楽器なら音符は楽に見渡せる。だが、管弦楽のようなスコアになったらどうなるか?試行錯誤が始まる。

やがてパーソナルユースのコンピュータが現れる。1985年に、初めての音楽アニメーションnewがAtari 800で動くBasicで誕生した。

2005年にYouTubeのサービスが始まると、マリノフスキーはすぐさまビデオをアップした。すると本人も夢にも思わなかった、ひと月で数百万回ものアクセスがあった。最初にアップされた作品の中のバッハの「トッカータとフーガニ短調newとドビュッシーの「月の光newは、演奏も自身によるもので、ともに現在千六百万ビューを超えている。

コード名smalinでYouTubeにアップされたビデオは現在150本を超える。これら作品ばかりか、そのソフトまですべて無償で公開している。iPad用アプリにもHarmonizerがある。

フリーで公開するのは、音楽を人類の共通財産としてたがいに共有しようとの意思か。世界の文学を共有しようとするグーテンベルグプロジェクトがあるように、また知識情報を共有する目的のWikipedia があるように、楽譜についても、International Music Score Library Projectが著作権の切れた楽譜出版を収集している。マリノフスキーはさらに、教育者として、このようなnew、楽譜、アニメーション、自身のピアノ演奏を重ね合わせた教育ビデオもアップしている。美しい演奏と踊る楽譜、それと舞踊のような指の動きーー教育とはインスピレーションなり、と思う。



 (2012/3/11) 
3.11 のための Music Animation Machine



 (2012/3/8) 
ワールドチャンピオンの課題、メディアの課題

アルガルベカップ、ドイツとの決勝戦。いい試合でした。序盤劣勢に立たされて簡単に2点を奪われたあと、なでしこがいかに体制を立て直すかに関心が注がれました。そうして、すばらしい建て直しで、ドイツに対し2度も追いつき、3点を入れたことに目を見張りました。

最後に失点して3−4で負けたのは残念でしたが、負けは負け。ランキング2位という上位チームのドイツから learnt a lot したことでしょう。とくに若手メンバーは。

ピッチになでしこと並んだだけでも対格差が歴然のドイツは、フィジカルの強さばかりでなく、日本のパスサッカーを潰す戦術に加え、ムバビ(Celia Okoyino da Mbabi 1988生)のスピードと技術が光りました。スピードとシュートの正確さでは、アメリカの Alex Morgan と比べられます。日本との試合ではあわやのシュート3発は外れてくれましたが、3位決定戦のスウェーデンにハットトリックを演じて、4−0で勝利しています。とくに Pia Sundhage 監督は彼女を評して "she can create chances from nothing sometimes"(なにもないところからチャンスを作る)と言いますが、そのゴールシーンnewが USSoccor.com にアップされているハイライトで見られます。

試合内容をどう見るかは、宮間と川澄のコメントnewが、チームを代弁しているように見えます。佐々木監督は、ややメディア対応の発言に傾いているように思える。ドイツチームについてのコメントは、ライブ放送時にも、その後の記事にも見当たらない。いっぽう、ドイツの Silvia Neid 監督の会見の一部がこのYouTube映像の最後に見られるが、日本チームもドイツチームについても、相変わらずよく見ている。はたして佐々木監督がドイツチームに言及していたのか、いなかったのか、分からないが、もしその部分をメディアがカットしたのならメディアの質が問われる。もし、なんにもコメントしていなかったのなら、ワールドチャンピオンの監督としてまだ未熟。

今回のアルガルベカップには、日本の報道陣が50社(人?)も押し掛けていたそうです。(Abby Wambach 対なでしこ戦の翌日?USSoccor.comの単独インタビューにてnew)彼女がそう言及したのは、女子サッカーの人気を高めるには結果を出すことが重要で、そのためにロンドンを見据えている、というくだり。去年のアルガルベに日本からメディアは1社しか来なかったそうで、Wambachは皮肉を込めているわけではないけど、ワールドカップでの優勝が日本メディアにフィーバー現象を起こしていることが見えます。

けれど素朴な疑問は、50社も押し掛けてなにを取材しているんだろう? まるで、記者クラブメディアのぶら下がり取材。十人十色というが、報道内容に50色出ているのかしら?



 (2012/3/6) 
名実ともにワールドチャンピオンとなったなでしこ

わたしなぞ、昨年のワールドカップからのにわか女子サッカーファンでしかありませんが、アルガルベカップでもいい試合を見せてもらっています。とくに昨日はアメリカに対して初めて勝ったマッチとして記念すべきものでした。ワールドカップ決勝ではPK勝ちしたものの、記録としては引き分け扱いなので、これで晴れてワールドチャンピオンの実が加わったように思えます。

試合が面白いのは、なにもなでしこが勝ったということだけの理由ではありません。アメリカも日本も、お互いに相手の良いところ、強いところを分析して、それが試合の進め方に現れているので、試合そのものも見ていて楽しめること。

楽しめないのは日本のメディアの報道。どこか芸能界ニュースみたいな空気が漂っている。記者の質なのか、鎖国的な日本メディアの体質なのか。国際試合なんだし、世界チャンピオンを有する国の記者なら、もう少し国際感覚が欲しい。今回も、アメリカの監督と選手が「なでしこを賞賛」したという見出しを誇らしげに掲げる記事に、笑ってしまう。

そのアメリカのナショナルチームのサイトには試合後すぐに PIA SUNDHAGE 監督とおもだった選手のコメント(と少し遅れてビデオも)が掲載されていました。ABBY WAMBACH は試合について、こう語っています。


They're the world champions, so whenever you can test yourself against 
the world champions is always a great opportunity for your team. You 
learn a lot. The Japanese team puts every team they play in difficult 
situations. I'm proud of the way we played today, but the Japan finished 
their chance and deserved to win. 
日本はワールドチャンピオンで、ワールドチャンピオンと対戦することはいつも
貴重な経験になります。たくさん学ぶことができるんです。日本チームは対戦相手
にことごとく自由に試合をさせません。わたしはアメリカチームの今日の戦い方は
よかったと思うけど、日本はチャンスを確実に決めて、勝利しました。
Post-Match Quotes: U.S. WNT 0, Japan 1
U.S. Soccer  March 5, 2012
注目したいのは、昨年のワールドカップでもそうだったように、どの選手も、監督も、「勝てた試合だった」とか「悔しい」などとは言わないこと。勝った相手にたいして賞賛と敬意を示して、次を見据えるこういう姿勢をとれるかどうか、それもワールドチャンピオンとしてのなでしこに学んでほしいところ。

ライブの実況の直後のスポーツ番組を見ていたら、試合後に、ゴールポスト脇で HOPE SOLO と宮間あやが談笑している姿が一瞬見えました。「やっとあなたの国に一勝できたよ」「またあなたのCKにやられたわね。おめでとう、新キャプテン」とでも話していたでしょうか。ワールドカップ決勝後の1シーンが思い起こされます。

さて明日はドイツとの決勝戦。これまたワールドカップの仕切り直しマッチになるでしょうか。



 (2012/2/21) 
脱原発のドイツがフランスへ電力供給?

東京電力福島原発の事故を契機に、ドイツ国民が脱原発を決定したとき、日本の原発利権派からは、「あそこはお隣のフランスから電気を買うことができるから」という冷ややかな陰口が唱和されておりました。昨日の毎日新聞の伝えるところによると、そのドイツは今や逆にフランスに電気を売るまでになっているとのこと。

東京電力福島第1原発事故後に「脱原発」を決め、国内17基の原発のうち
約半数にあたる8基を停止したドイツが昨年、周辺諸国との間で、電力輸入量
よりも輸出量が多い輸出超過になっていたことが分かった。脱原発後、いったん
は輸入超過に陥ったが、昨年10月に“黒字”に転じた。太陽光や風力などの
再生可能エネルギーの増加と、全体のエネルギー消費量を抑える「効率化」が
回復の要因だという。厳冬の影響もあり、電力不足の原発大国フランスにも
輸出している。【ブリュッセル斎藤義彦】
『ドイツ:脱原発しても…電力輸出超過 再生エネ増、消費減で』
毎日新聞 2012年2月20日 東京夕刊
事故の当事国の政府がなおも原発利権にすりよっているのに対して、ドイツは、技術力と人間力がなにをなしうるのか、世界に示しているようにも見えます。

昨日2月20日のたね蒔きジャーナル・小出裕章対話篇はまずこの話題から。ニッポンメディアには相変わらず電力不足や電気料金への不安をあおる記事が踊ります。



 (2012/1/26) 
ふたたび「対話篇」について 〜同じ場所で論争して分かる「科学」〜

1月5日に、たね蒔きジャーナル+小出裕章の「対話篇」をとりあげました。その小出氏がかつて関わった原発裁判では、論争では住民側が圧勝していたのに、判決は国側の勝訴に終わりました。原発というものが、国の基幹政策であって、裁判が独立性を保てない、と判断して、かれはそれ以降、裁判に関わることをやめます。

1月25日のたね蒔きには、志賀原発2号機の運転差止め判決を出した当時の裁判長がゲスト出演。文系の裁判官が理系の難しい議論を理解できるかということについて、100%の安全はないから、社会的に安全だと許容されるかどうかの判断を、個々の裁判官はできるはず、というコメントの後で、水野アナが小出氏に問います。

水野:科学としての論争と 社会的判断というお話が今出てきました。

小出;はい、裁判の場所で、お互いに証拠を出しながら、
 反対尋問もあるわけですね。
 そういうときに、どういう答えをするかということを
 見ていていただけるならば、
 その主張が正しいのかどうなのかということは、
 わたしは、分かっていただけるものだと思ってきました。

水野:素人でも、ですか?

小出:そうです。
 ですから、原子力をわたしは反対してきましたし、
 国は進める、と言ってきたわけですけれども、
 わたしの意見をただ聞く、
 そして国の意見をただ聞く、
 のではなくて、
 同じ場所で論争させてくだされば、
 どちらが正しいか、みなさん分かる、
 ということをずうっと言ってきて
 一対一の論争であればどこへでも行きます、
 とわたしは今まで言ってきましたし、
 出て行くようにしてきたのですけれども。
 内容が科学的に難しいものであったとしても、
 それを、両者が論争しているところを聞いていただければ。
 どちらに理があるというこは、たぶん、ほとんどの人に
 分かっていただけるものと思ってきました。

『たね蒔きジャーナル+小出裕章』1月25日放送分
ガリレオの対話篇でなくても、シェイクスピアの「ベニスの商人」をはじめとして、欧米の小説、映画には法廷劇での論争が山場となるシーンがありますが、日本では裁判制度の問題もあるのか、あまり知りません。はたして、裁判制度の問題なのか、そもそも「論争」を避ける教育制度の問題なのか、分かりませんが、昔読んだ裁判劇の傑作、小泉喜美子の『弁護側の証人』は、ながく絶版だったものが、めでたく復刊しているようです。


 (2012/1/19) 
ライダーは東北をめざそう 〜復興の黄色いハンカチーフ〜

X白バイのNさんと新年の挨拶交換で、東北の旅の話題になりました。その一節を引用させていただきます。(写真の提供もNさん)

私:昨年は福島原発事故で、日本という国が亡びるかもしれない、と気が気であり
 ませんでした。いまでも、その可能性がなくなったわけではありませんが、あの
 原発さえなかったら、地震と津波の被害からの復旧はもっと進んでいるはずだ
 と思わずにいられません。

 雪が融けたら、東北の被災地を見て来ようと計画しております。

Nさん:昨年の震災では、私も心を痛めている一人です。
 と言いいますのも、今春無くなった実祖母が暮らした、
 そして、私が生まれ育った街が、茨城県の北の外れの
 北茨城市という所だからです。福島県いわき市に隣接し、
 津波被害に加え、放射能の影響が少なからず有る地域です。
 親族の中には未成年の者も居り、今後の人生に多少の影響が
 考えられます。

 上記とは別に、昨年10月始めに、ツーリング仲間と宮城県の
 被災地へ復興応援と称して、お金を落とすツーリングへ行ってきました。
 石巻港や女川港等見て回りましたが、特に女川など、マッドマックスの
 ロケ地のような有様でした。4階建て鉄骨ビルの天井にまで、津波の
 漂流物が引っかかっておりました。倒壊したビルもそのまま残っておりました。
 
 帰路、蔵王〜米沢〜猪苗代と経由して来ましたが、福島の観光地も
 閑散としておりました。こちらの影響の方がやはり大きいでしょうね。
 
 [CBX]様も雪解け後に、当地へ行かれるとの事。
 お気をつけて行かれて下さい。少しでも応援になればと
 願っております。
被災地への応援のひとつは、まず人が行くこと。テレビのフィルターを通しての映像で分かったつもりになるのでははなくて、そこの地に立ち、そこの空気を吸い、そこの人々と接すること。それが、ツーリング。そして、そこでわずかでもお金を回すこと。金は天下の回り物。バイクは天下を巡るもの。

NHKだったか、新春のテレビで山田洋次監督が被災地を訪ねるドキュメンタリー番組がありました。その中で、かつて我が家のあった場所に、復興のシンボルとして黄色いハンカチを掲揚した被災者の方がおられました。ならばバイクに黄色いハンカチをくくりつけましょうか。それとも、黄色いマフラーがいいかな。まぼろし探偵...若い人は知らないか。



 (2012/1/17) 
たまにはコンピュータネタ 〜不確定性原理と暗号〜

昨日からヤフーニュースのサイエンストピックスに心躍る見出しが出ていますーー「不確定性原理の欠陥を実証」。

いまでは高校の物理の教科書にも「不確定性原理」の解説があるそうですから、とくに物理学の専門家でなくとも興味をいだくニュースです。けれど、メディアの伝える内容は、サイエンスライターがいないせいなのか、その見出しからして首を傾げるものが多い。

『不確定性原理に欠陥…量子物理学の原理崩す成果』
読売新聞 1月16日(月)3時4分配信

『不確定性原理:量子力学の基本法則に欠陥 名古屋大教授ら実証 教科書の書き換え迫る』
毎日新聞 2012年1月16日 東京朝刊
いくらかましなのは、朝日か。
『物理の根幹、新たな数式 名大教授の予測を実証』
朝日新聞 2012年1月16日3時1分

科学技術の根幹にある量子力学の「不確定性原理」を示す数式を書き換える、
名古屋大の小澤正直教授の予測が、ウィーン工科大の長谷川祐司博士らの実験で
確認された。15日付で科学誌ネイチャー・フィジックス電子版に報告する。
絶対に破られない量子暗号などの技術開発に役立ちそうだ。 
いちばん解り易い解説は日経サイエンスの記事。小澤教授がこの関係式を発表した当時からの追跡記事になっている。
『ハイゼンベルクの不確定性原理を破った!小澤の不等式を実験実証』
日経サイエンス 2012年1月16日 

筆者が小澤教授に初めてお会いしたのは,この式が発表される前の2001年でした。
物理学者の一部は小澤教授の提唱を高く評価していましたが,大半は「間違っては
いなそうだけど,よくわからないなあ」と困惑の表情。実験で検証できるメドも
立っていませんでした。ですがその後,小澤の不等式が登場し,量子コンピューター
のエラー確率の推定などに威力を発揮し始めると,物理学界の反応は「なんか怪しい」
から「これは本物だ」へと,見る見る変わっていきました。2000年代後半には,少なく
とも量子情報の分野では,小澤の式を前提に議論が進められるようになっていました。
高校生でも教わる不確定性原理といいますから、ハイゼンベルグのもとの関係式と小澤教授の新しい関係式を示すと、
ハイゼンベルグ: Δp・Δq ≧ h/4π

小澤教授:    Δp・Δq + Δp・σq + Δq・σp ≧ h/4π

  h:プランク定数
 Δq:位置の誤差
 Δp:測定による運動量の乱れ
 σq:測定前に測定対象がもともともっていた位置の量子ゆらぎ
 σp:測定前に測定対象がもともともっていた運動量の量子ゆらぎ
新しい項がふたつ加わっているのがわかります。

上記の日経サイエンスの記事には

ハイゼンベルクは不確定性原理を考える際,この量子ゆらぎと測定による誤差や
乱れを混同した形跡がありますが,量子ゆらぎというのはもともと物体に備わって
いる性質で,測定とは関係なく決まります。小澤教授はこれを厳密に区別した上で
観測の理論を構築し,新たな不確定性の式を導きました。
とありますが、私の学生時代も、測定による誤差と量子ゆらぎがいっしょくたに議論されていることに違和感があったものの、原理としてはいっしょなのかな、と思ったものでした。

では、ニュースになったネイチャー・フィジックスの論文はどんなものかというと、そのタイトルは

"Experimental demonstration of a universally valid error-disturbance uncertainty relation in spin measurements"
Nature Physics Published online 15 January 2012
「スピン測定による、誤差と撹乱の普遍的不確定性関係の実証」とでも訳すのでしょうか。その中で、
Heisenberg's original relation is valid only under specific circumstances.
ハイゼンベルグのもともとの関係式は限られた条件の下でのみ正しい。
として、新しい関係式が普遍的に成り立つことを主張しています。

2003年に発表されたというこの式をいちはやく取り上げていた本のひとつが、2004年に出版された石井茂著「量子コンピュータへの誘い 〜きまぐれな量子でなぜ計算ができるのか〜」。その最終章でこの式の意味するところを、明快に述べています。

この式から分かるのは、もはや位置を正確に決めても運動量の擾乱を無限大にする
必要はない、ということである。逆もまた同じである。=中略= 新しい不確定性
原理が正しいのであれば、これまで制限を受けると考えられてきた量子的な操作が
可能になるかもしれないのである。その最初の実験場が量子コンピュータである
ことは、まず間違いないであろう。
(石井茂『量子コンピュータへの誘い』 2004年 日経BP社 264ページ)
なぜ「量子コンピュータ」かというと、そこに暗号の未来もかかっているから。現在のネット社会は商取引はもちろん、あらゆる通信が暗号技術をベースに成り立っている。もしも量子コンピュータが実現すると、その現在の暗号はかんたんに破られてしまう。
暗号解読者が量子コンピューターの到来を待ち望んでいるのに対し、暗号作成者も
独自の立場からテクノロジーに奇跡を起こそうと努力を続けている。=中略=
(その新しい暗号の)システムに基礎を与えているのは、量子コンピュータの場合と
同じ量子論である。つまり量子論は、現行のあらゆる暗号を解読してしまうコン
ピューターの母胎である一方で、”量子暗号”という解読不能の暗号の心臓部にも
なっているのである。
(サイモン・シン『暗号解読』 青木薫訳 2001年 新潮文庫 下巻 255ページ)


 (2012/1/5) 
その人の「声」を聞け

学問的真実を公言したために、ときの権力から弾圧された例として、ガリレオ・ガリレイがよく引き合いに出されます。それはルネッサンス期の天文学の大転回に、科学革命のルーツを見るヨーロッパ史観によるところもあるでしょう。実際は、ガリレオがカトリックに反抗したのも、カトリックの権威にもすでにガタがきていた現れでもあるのと、彼は勃興しつつあった新しい実学・実業勢力のイデオロギー的旗手でもあったからです。

しかし、ガリレオが現代に残した最大の遺産は「それでも地球は動いている」というせりふではもちろんなくて、ふたつの著作「天文対話」と「新科学対話」です。歴史上、洋の東西を問わず、後世に大きな影響を与えた著作は、ふしぎなことに「対話篇」や「言行録」です。キリスト教の教典のひとつ新約は信徒によるキリストの言行録、「論語」は孔子の著作ではなくて、これまた弟子による言行録であるのは言うに及ばず、哲学の始祖たるソクラテスはその弟子の詩人プラトンが、対話篇を残すことで、そのことばを「再生」させたものです。

この「対話」という著述形式がどうして成り立つのか、ふしぎに思って若いころ考えをめぐらせたことがありました。日本の学校教育は、教室は「聴講型」、教科書は「記憶型」。なぜ「話し合い」の速記録のような著作が哲学の古典でありうるのか? 結論があるなら、そこだけでいいんじゃない? 要約はないの? 「記憶型」の学者の本には、『ソクラテスの弁明』は「無知の知」がテーマだと、あっさり「要約」しているものがある。これが学校試験の正答? 『弁明』をじっさいに読まずに内容が分かるすばらしい教育。

どうやらヨーロッパの教育・学問は、この対話によって、その論理、批判、証明の方法を磨いてきたのだと分かってきました。論述型の著作にもこの対話法が応用されるようになったが、それを日本語に輸入するときに「弁証法」という訳語を与えた学者は、やはり優秀な「聴講生」「記憶生」だったのでしょう。

今では、書かれた文字によらなくても、対話の声を、文字を読むのと同じくらいにかんたんに、聞くことができるようになりました。対話の声とは、なにも肉声だけのことではありません。問われたことがらにたいしてどう答えたか、だれも問うことのなかったことについてはどんな問い方をしたのか、それは現在進行形のドラマ。

原発事故発生直後からの対話篇『たね蒔きジャーナル+小出裕章』、今年の1回目は1月4日放送。40年前に、原発の学問的真実を公言したときに、対抗することになった敵について。



 (2011/12/30) 
「責任者はだれだっ!」

以前とりあげた映画『東京原発』(2002年製作、2004年公開)のなかにこんなせりふがあります。

プルトニウムを積んだ船が、事前の相談もなく、極秘にお台場に入港することを知った
東京都知事が、怒って原子力委員会の担当に、

「なんで東京都知事のオレが知らないんだ。責任者はだれだっ!」

と怒鳴るが、担当は平然と笑いながら、

「なに言ってんですか。国のやることに責任者なんているわけないじゃないですか」

この「東京原発」に限らず、動画サイトにアップされた反原発の動画・ビデオが次々と削除されています。原発推進派の陰湿な圧力によるものでしょう。

上のシーンが象徴しているのがまさに日本の権力構造で、だれも責任をとらず、責任の所在さえあいまいにされて、利権が優先されるしくみ。第一、国の最高責任者が誰なのかさえ、考えてみるとあやしい。

国をまさに滅ぼさんとした福島第一原発の事故について、「個人の責任を問わない」と公言する調査委員会。その犯罪者グループのひとり、東京電力が電力料金値上の発表とセットで、国有化する案が検討されている。ニッポンメディアは、政府と東電の広報の域を出ないが、ジャーナリズムメディアにはまともな論評が見つかる。

『つぶれかかった会社に税金をつぎ込み利権化する「東電国有化」は最悪の選択だ』
長谷川幸洋「ニュースの深層」 現代ビジネス

つまり、今回の国有化話は官僚たちがつぶれかかった東電に巨額資金を投入して、
新たな利権にする狙いがみえみえなのだ。消費税引き上げに加えて、電気料金
値上げでは消費者はたまらない。官僚が主導する野田佳彦政権の本性がいよいよ
露わになってきた。
だれも責任をとらず、責任の所在さえ隠しているのがニッポンという国で、それを補強してきたのがニッポンメディア、という構造がはっきり見えています。国がこうなのだから、東電ばかりでなく、利権が一体の他の大企業もそう。どうしてもカタをつけないとならなくなると、オリンパスのように、トカゲの尻尾を切って済まそうとする。

2011年は、ウォルフレンの著書名じゃないが、日本の「権力構造の謎」がナゾでなくなった年になりそうですが、同時にそれが瓦解し始めた年としても、記憶されことになりそうです。



 (2011/12/10) 
メーカーと官僚

昨日のたね蒔きジャーナルのゲストは、神奈川県の黒岩祐治知事で、ポリオワクチンの話。はて、小児まひのワクチンがなぜ今問題になっているのか? 

『ポリオワクチンで国に挑戦状〜黒岩祐治さん』
たね蒔きジャーナル 12月9日放送

〜「安全なワクチンがあるのになぜ国は認めないのか」幼いこどもを持つ親なら当然
抱く疑問です。でもポリオワクチンを巡っては安全な不活化ワクチンの導入が遅れて
いて、国はポリオ発症の危険がある生ワクチンの接種を今も呼びかけています。
神奈川県は「国の動きを待ちきれない」と独自に不活化ワクチンの接種を始めます。
黒岩知事に決断の理由、国・厚生労働省の反応の鈍さについて話してもらいます。〜
話を聞くと愕然とします。問題の背景に、どうも、国民の命を守るという意識よりも、国産メーカーの利権がからんだ政府官僚の思惑が見え隠れしています。国産メーカーの「保護」もあるでしょうが、メーカーを生かしておくことが、自分たちの統治と利権の確保につながっているのでしょう。

オリンパスの第三者委員会の報告書も、そのいい例です。この報告書をこぞって評価する記事ばかりがメディアで目立つが、おととい記事を引用した山口巌氏は、さっそく核心をついたコメントを出しています。

『オリンパス、第三者委員会の報告内容に就いて』
山口巌 アゴラ 2011年12月09日12:33

 「不法行為に加担した関係者は法的責任を追及されるべき。代表取締役と
  同格の経営監視委員会または経営監視役を一定期間設置するのも1つの
  方法」
さらっと言っているが、早い話、今後は経営監視委員会がオリンパスを支配すると
言っているのである。経営監視委員会のメンバーは雇われ弁護士であっても、実質
支配するのは勿論官僚に決まっている。
委員会の「オリンパスは経営の中枢が腐っており、周辺部分も汚染され、悪い意味でのサラリーマン根性の集大成ともいうべき状態だった」というお達しは「上から目線」というのがぴったり。おまえさん、さては大岡越前か。


 (2011/12/8) 
Publish or perish

ヤフーニュースのトピックスに、脱原発を宣言した山本太郎のインタビューがありました。その発言の中で、おやっ、と思ったのは、環境保護、人権擁護の団体についてのストレートなもの言い。

『収入は10分の1。それでも『命』を守りたかった』
山本太郎(俳優)インタビュー オルタナ 12月8日(木)10時46分配信

(グリーンピースの脱原発とは対照的に)アムネスティ・インターナショナル
やヒューマン・ライツ・ウォッチといった世界中の人権に目を光らせていた
はずの団体が、福島の子どもたちの問題に関しては大きなアクションを起こし
ていません。その事に対して、本当に強い憤りを覚えます。
(全文はこちら
そのアムネスティのHPを見ると、
「汚染される土地 奪われる人びとの暮らし」
という特集があるので、福島のことかとおもったら、ナイジェリアの話。なんのことかというと、
「かつて住民たちは、豊穣な自然と調和した暮らしを営んでいました。しかし、
同地域で原油の採掘を行う石油会社シェルが引き起こした、おびただしい量の
原油の流出により、近年ナイジャーデルタに暮らす人びとの生活が、壊され
つつあります」
原油流出を放射能汚染に、石油会社を電力会社と読み替えて、もうひとつ特集を組まないのはなぜなのか、山本でなくても疑問が湧く。足下の幸せに気づかずに「山のあなた」に幸福を求める詩人は何時の世にもいるが、目の前の不幸を見ないで、海のかなたの不幸を熱く語ることは、ジャーナリストとして、メディアの「発信者」として、バランスが欠けているように見えてしまう。

知っているのに恐怖から沈黙すること、公表すべき情報を意図的に伏せることは、ジャーナリストとして失格。Publish or perish(発表せよ、さもなくば滅びよ)という格言は先取権を競う学者に対する警告だが、ジャーナリストの正義についての教えでもあるでしょう。(publishは、印刷出版だけでなく、公にする、の意)

ジャーナリストとはなにも大手メディアのサラリーマンのことでなく、フリージャーナリストも、ブログやサイトを開設している「発信者」も、みなメディアの一端を担うパブリッシャー。

発表すべきことを伏せている例を、オリンパス報道に見ることができます。

『大企業に義務付けられる社外取締役は役に立つのか』
山下知志 週刊文春2011年12月15日号「THIS WEEK 企業」より

「他会社出身」は大手企業の元トップ、現役経営者や会長が多い。(中略)
ノーベル経済学賞のコロンビア大学のロバート・マンデル教授が〇五年から
 一年間、オリンパスで社外取締役を務めた。
オリンパスの話題なのに、執筆者は上のようになでるだけで、オリンパスの能無し社外取締役がどこから来たのか、かんじんなことに触れないでいる。さらに、ノーベル経済学賞をもらった学者を社外取締役に据えたことも、今回の事件の役者のファンドと関係しているのに、なんにも触れていない。こうした個別の事実を探求することなく、表題のような当たり障りのない一般論で済まそうとしている。

そんななか、ニッポンメディアが「発信」しない疑問に対して、ストレートに解答している一例がこれ。

『オリンパス上場維持は「粉飾OK」のサインだ』
保田隆明 ダイヤモンド・ザイ 12月8日(木)11時30分配信

オリンパスを上場維持とするか上場廃止とするかに関しては、政治的な判断
も絡んでくるのであろうが、もし上場維持となった場合は今回のようなこと
が今後も許容されることを意味する。
 極論ではあるが、暗に上場企業に対して「粉飾決算をしてもオッケーですよ」
と言っていることに等しい。
つまり、オリンパス上場廃止の議論について、だれもが気づいているのに、ニッポンメディアが触れたがらない、同じ問題で破綻させられたライブドア事件との、あまりの差。
『オリンパス事件の焙り出すもの』
山口 巌 アゴラ 12月5日(月)13時35分配信

オリンパス事件に就いては、以前記事を書いた経緯もあり相変わらず興味を
持っている。それにしても報道が少ない。少な過ぎる。

たまの報道に接したとしても、殆どが当局が何がしかの意図を持ってリーク
したものの垂れ流しであり、マスコミが独自に取材したもの等殆どないのでは
と理解している。少ない情報ではあるが、そこから得た、最初の印象はライブ
ドア事件に対して見せた当局の熱の入れ方に対し、今回の冷え切った捜査対応
である。

ライブドア事件は、結局は50億円弱の有価証券虚位報告(粉飾決算)に過ぎ
ない。

しかしながら、当局はライブドアは必ず破綻させる。堀江元社長は実刑判決に
し必ず服役させる。強引な起訴であっても、裁判所は所詮首振り人形で検察の
決定に追随する。これは、飽く迄私の推測であるが当局の決意が伝わって来た。
Publish しないニッポンメディアは、早晩 perish する運命にあることにも気づかないでいます。


 (2011/12/5) 
あるオートバイ事故

昨日の日曜日、午後4時過ぎに東名を沼津から横浜青葉に向かって走行しているとき、大井松田から厚木の区間が事故のために通行止めとの表示が出ていました。

そのために、きゅうきょ御殿場で高速を降りて、山中湖経由で道志みちを走りましたが、こちらは空いており、時間がよけいにかかったものの、快適に飛ばすことができました。

夜のテレビニュースで、フェラーリなどのもったいない外車14台が事故でそろってスクラップになったとの報道があったので、これかっ、と思ったら、こちらは中国自動車道の話。今朝、あらためてヤフーニュースのトピックスをブラウズしていたら、東名のほうの記事があり、オートバイがからんだ事故と分かりました。

4日午後2時25分ごろ、秦野市西大竹の東名高速道路上りで、オートバイと
乗用車が衝突。オートバイを運転していた東京都江戸川区、会社員男性(44)
が転倒し、後ろからきた観光バスにひかれ、間もなく死亡した。
(中略)
乗用車が第3車線から第2車線に車線変更しようとした際に、後ろから直進
してきたオートバイと衝突したという。
『東名高速で死亡事故、大井松田−厚木IC間で6時間通行止め/秦野』
カナロコ 12月4日(日)23時30分配信
はて、これだけではオートバイが第3車線(追い越し車線)で追突したのか、あるいは第2レーンを走行していたオートバイの鼻先に乗用車が立ちふさがったのか、正確な状況は読み取れません。

わたしがバイクに乗り始めたその昔、あるバイク雑誌は連載でバイク事故の実例を取り上げて、いかにして事故が起ったのか、分析する記事を掲載していました。そしてそれは、こういうケースもあるんだ、と未熟なライダーに大きな参考となったものです。ですので、オートバイの事故のニュースなどは、警察発表では状況が不明なことが多い(しかも、ライダーが病院に運ばれて、目撃証言がなかったりすると、相手側のドライバーは自分の不利にならないよう一方的な話をすることもあるし、それをそのまま警察が調書にしてしまうケースがある)のですが、いくらかヒントになる情報もたまにありますので、注意して目を通しています。

上の記事では、事実は分からないにせよ、こうだったかもしれない、という想像をして、そんなときにどうすべきか、またどうすべきでないか、仮説を立てることは、ライダーにとって有意義なイメージトレーニングだと思います。

その後、以下の続報で実際の状況に近づくことができました。

県警高速隊によると、寺本さんのオートバイと前を走る乗用車が同時に右端の
追い越し車線から中央の第2通行帯へ車線変更した際に衝突。転倒した寺本さん
が後ろから来た観光バスに引きずられたという。
『交通事故:オートバイ男性、多重事故で死亡−−秦野・東名高速 /神奈川』
毎日新聞 12月5日(月)10時53分配信
これらの限られた報道内容から推測される事故の状況はこんなところでしょうか。
追い越しレーンを(おそらくは中速で)走行中の車に、背後から高速ででバイクが
迫ってきた。バイクは車が追い越しレーンに居坐ると思って、その左レーン(第2
車線)から追い越しをかけたが、同時に車のほうもあわてて追い越し車線から第2
レーンに車線変更したために、よけきれなくて追突、転倒した。
過失がどちらにあったにせよ、また油断や一瞬の判断がどうだったにせよ、ひとりのライダーの死をむだにしないためにも、無事にバイクに乗れているライダーは他人の事故に目を背けずに、そこから学ぶべきだと思うのです。




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