信濃国や関東地方の武田氏や北条氏との抗争において、近隣諸勢力と活発な外交連携策を展開したが、その一方では父祖の方針を継承して北陸道の制覇にも乗り出し、元亀3年(1572)に信玄が西上の軍を起こすと謙信は織田信長と同盟し、越中国富山城を攻略、天正元年(1573)には越中国を平定している。
しかし勢力圏がかちあったことなどから同年に信長と断交、信長と敵対していた本願寺と結び、信長の手が伸びていた能登国の侵攻を図り、天正5年(1577)9月、加賀国手取川(湊川)で織田勢を破った(七尾城の戦い〜手取川の合戦)。
翌天正6年(1578)正月には関東出陣のために兵の総動員を発しているが、その出陣を直前にして急逝した。3月13日のことで、49歳だった。諡号は不織院殿真光謙信法印大阿闍梨。謙信は酒をこよなく愛する武将であったが、それが祟っての脳溢血であるといわれている。
生涯を独身で通し、実子を持たなかったために謙信の死後、家督相続をめぐって2人の養子・上杉景勝と上杉景虎による「御館の乱」が勃発した。
真言密教に帰依し、戦においては私利私欲ではなく『義』を掲げることによって正当性を主張、国人領主を中心とする家臣団を統率した。
義侠心に富んでいたというエピソードとして、宿敵でもある武田信玄が近隣諸国より「塩止め」をされたとき、謙信のみは適正な価格で塩を送ったという話は有名である。
信玄は「謙信と事を構えてはならぬ。謙信は、頼むとさえ言えば必ず援助してくれ、断るようなことは決してしない男だ。この信玄は大人気もなく謙信に依託しなかったばかりに一生謙信と戦うことになってしまったが、武田の家を保つには謙信の力にすがるよりあるまい」と嗣子・勝頼に遺言したといい、北条氏康も「信玄と信長は表裏常なく、頼むに足らぬ。ただひとり謙信のみは請け負った以上、骨になるまで義理を通す人物である。この氏康が明日にでも死ねば、後事を託せるのは謙信だけである」と認めていたという。
北条氏康に圧せられて逃れてきた関東管領・上杉憲政の頼みを受けての14回にも及ぶ越山(関東出兵)、武田信玄に圧せれた北信濃諸将に頼まれ、また地理的条件からの武田信玄との角逐戦(川中島の合戦)は、まさにその生涯を彩るものであった。信玄との5度にも及ぶ川中島での対陣や合戦は、戦国という時代を飾った。また、当時にあっては既に形骸化していた朝廷や将軍家への崇敬も厚く、拝謁するために2度の上洛をしている。
体格は6尺近い偉丈夫であったが、和歌をよくし、信仰心の厚い人物だったという。