河野通宣(こうの・みちのぶ) ?〜1570?

伊予国の戦国大名。河野晴通の弟。兄・晴通と同様に父は不詳であり、惣領家の河野(弾正少弼)通直の子とする説や、「予州家」と呼ばれる有力庶家・河野通存の子とする説がある。
通称は宗三郎・四郎。左京大夫。伊予国湯築城主。
弾正少弼通直の父も通宣を称しているため、その通宣を刑部大輔通宣、この通宣を左京大夫通宣と称す。
晴通の活動は天文12年(1543)3月を境に見られなくなり(一説にはこの年4月に早世)、天文19年(1550)12月の文書が通宣署名の初見である。この空白期間から天文21年(1552)11月までは通直が主に文書を発給・受給しており、通宣が単独で河野氏当主としての活動を見せるのはこの後のことである。
河野氏は伊予守護職を世襲する家柄ではあったが、伊予国南域には喜多郡の宇都宮氏や宇和郡の西園寺氏といった勢力が割拠しており、河野氏は北半を支配するにとどまっていた。ために強力な支配を展開し得ず、天文22年(1553)には浮穴郡の大野利直が、また、久米郡岩伽良城主の和田通興が反抗するなど、通宣の時代は家臣の謀叛が相次いだが、天文24年(=弘治元年:1555)の厳島の合戦に河野氏重臣・来島通康が合力したことを機として安芸国毛利氏との協力関係が生じ、とくに永禄8年(1565)以降の土佐国司・一条兼定による南伊予侵攻には毛利元就の加勢を得て対処している。
しかし病気がち(中風と伝わる)であったためか存在感は薄く、対外的には来島通康をはじめとする側近や重臣らが執り行っていたようである。一説には通宣は病のために致仕し、永禄11年(1568)2月には河野(兵部少輔)通直が元服して家督を継ぎ、通宣は永禄13年(=元亀元年:1570)までには死没していたと目される。