大崎義直(おおさき・よしなお) ?〜1567?

陸奥国斯波大崎氏第11代当主。9代・大崎義兼の二男。10代・大崎高兼の弟。通称は彦三郎。初名は義国。従五位上・左京大夫。奥州探題。陸奥国栗原郡名生城主。
陸奥国の大崎5郡(加美・志田・遠田・玉造・栗原)を領す。
大崎義兼の死没後、嫡男である高兼がその地位を継承したが、高兼も治世わずか1年で没したため、弟の義直がこれを継いだ。これらの事跡の年次は不詳であるが、義直は永正11年(1514)までには大崎氏当主の地位に就いている。
天文3年(1534)5月に家臣の新田頼遠が叛いたため、これを征伐するため6月中旬に出陣したが、重臣の氏家氏や一門衆の古川・高泉氏らも連鎖的に叛いたため義直は敗退し、伊達稙宗に支援を要請したが容れられなかった。
翌年に再び出陣するもまたも敗れた。この時期は氏家氏や古川氏の家中でも内訌が起こっていたため、反義直勢力の襲来こそなかったようではあるが、この分裂抗争によって領内が荒廃したため、天文5年(1536)2月に再び伊達稙宗に出馬を要請。今度は稙宗もこれに応じて5月に出陣、その武力によって9月半ばには和議が成立して内乱は終息した(大崎内乱)。
この内乱の前後、義直は伊達稙宗の二男・小僧丸(のちの大崎義宣)を養子に迎えている。これは伊達氏の影響下に入ることを意味するが、その時期は不詳である。内乱勃発以前のことであれば、この内乱は小僧丸入嗣反対派が反発して行動を起こしたものであると見ることができ、内乱後であれば、伊達氏への恩義と威勢の前に入嗣を受け入れざるを得なかった、とも解釈できる。
天文6年(1537)6月頃に氏家氏は大崎氏に対して再び叛乱を起こしたが、再び伊達氏の武力によって同年9月末までには鎮圧が成ったようである。
天文11年(1542)に伊達稙宗・晴宗父子の分裂抗争(伊達氏天文の乱)が勃発すると、義直は交誼のあった留守景宗の属す晴宗方に与したが、義宣は留守氏と敵対していた国分氏(稙宗方)を支援したことから、義宣との亀裂が深まった。
伊達氏天文の乱は天文17年(1548)9月、稙宗が隠居して晴宗が家督を継ぐというかたちで終息し、実質的に晴宗方の勝利となる。義直はこの時流を背景に義宣の排斥を進めたようである。
永禄10年(1567)には嫡子の義隆が所領の宛行など当主としての活動を行っていることから、義直はこの前後に死没、あるいは隠居したと思われる。
法名は蟠松院殿龍山洞雲大居士(「加美郡宮崎村洞雲寺書出」)。