大崎義宣(おおさき・よしのぶ) 1526?〜1550

伊達稙宗の二男。母は蘆名盛高の娘。伊達晴宗の同母弟。幼名は小僧丸。通称は三郎。
年次は不詳であるが、大崎義直の養子となる。
大崎氏当主の大崎義直は、天文3年(1534)に起こった家臣の叛乱を自力で鎮圧し得ず、伊達稙宗の助力を得てようやく鎮圧した(大崎内乱)。義宣が大崎高兼(大崎義直の兄)の娘・梅香姫の婿となって大崎氏の養子となったのは、この大崎内乱の前後の頃であったという。入嗣が内乱勃発以前のことであれば、この内乱は小僧丸(義宣)の入嗣に反対していた者たちが義直・義宣に反発して行動を起こした可能性があり、内乱後であれば、叛乱軍を鎮圧した威勢と恩義のある伊達氏からの圧に抗し得ずに入嗣を受け入れざるを得なかった、とも解釈できる。
大崎内乱は天文5年(1536)に沈静化したが、天文11年(1542)になると、今度は実家の伊達氏で分裂抗争が勃発する。伊達稙宗・晴宗の父子抗争となった伊達氏天文の乱(別称で洞(うつろ)の乱ともいう)である。この抗争に際して義宣は実父の稙宗に味方し、稙宗方であった国分宗綱を支援して出陣している。しかし大崎義直は、この国分氏と敵対していた留守景宗と昵懇の間柄で、景宗が属した晴宗方に与している。
義宣と義直が直接に交戦することはなかったようだが、伊達氏天文の乱が晴宗方の優位で終息すると、後ろ楯をなくした義宣は大崎家中から排斥されて没落したと見られ、実弟(伊達稙宗三男)の葛西晴胤を頼って葛西に赴く途中の天文19年(1550)5月20日、桃生郡の辻堂で討たれたという。