摂津国のキリシタン大名。図書・飛騨守。号は大慮。高山重友(右近)の父。
はじめ大和国宇多郡沢城主で、松永久秀に属した。
永禄6年(1563)、畿内で布教中のキリスト教宣教師・ヴィレラやロレンソらと論じ、キリスト教に傾倒して受洗した。その翌年にはロレンソを沢城に招き、家臣や妻子に説き聞かせて受洗させている。
受洗名はダリヨ。号の大慮は「ダリヨ」の当て字か。
永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を伴って上洛を果たし、久秀の支配力が後退したのちは和田惟政に属し、摂津国島上郡芥川城主となる。元亀元年(1570)に摂津国高槻城将となり、惟政の死後は城主として荒木村重に属した。
天正6年(1578)に村重が信長に叛いたとき、友照は村重方として織田勢に抗戦したが、子・重友が信長に降って高槻城を開城したため、友照は村重のいる摂津国有岡城に移った。翌年に至って村重が有岡を捨てて逐電したのちは越前国の柴田勝家に預けられたが、妻と共にキリシタンの布教に尽力した。
天正10年(1582)の信長の死後、高槻に戻った。
天正13年(1585)に重友が播磨国明石に移封されるとこれに従って移住。
天正15年(1587)6月にバテレン追放令が発せられ、これに従わなかった重友が改易されると父子で小西行長を頼った。
天正16年(1588)、重友が前田利家に招かれると同行し、金沢に移住した。
文禄3年(1594)頃、療養のために上京するが、慶長元年(1596)に京都で没した。
子の重友は敬虔なキリシタン大名として著名であるが、この友照も真摯な信者であった。
ある冬の寒い晩に城内を巡回していた折に、寒さに震えていた下級兵士を見つけた友照は、自分の着ていた新調の着物を脱いで与え、自らは古い着物に着替えた。そんな格好をみて不審に思った夫人が尋ねると、友照は「着物を主に捧げたのだ」と答えた、という逸話が残されている。
また、領内の貧しいキリシタンが死んだとき、友照・重友父子は葬儀の司祭役をつとめ、棺を共に担ぐばかりでなく、埋葬のための墓掘りまでも手伝ったという。