谷忠澄(たに・ただすみ) 1534〜1600

長宗我部家臣。通称は忠兵衛。
もとは土佐郡一宮・土佐神社の神官だったが、長宗我部元親に仕え、滝本寺の僧である非有(忠澄の弟とも伝わる)や栄音らと共に外交を担った。智謀に長けた人物だったという。
天正6年(1578)2月、長宗我部氏が阿波・伊予・讃岐国を結ぶ交通の要衝であった白地城を落とすと、その統治を担った。
天正13年(1585)6月、羽柴秀吉四国征伐の際は江村親俊と共に阿波国一宮城の守将となり、5千の兵で羽柴秀長の率いる5万ともいわれる軍勢と対峙してよく支えた(一宮城の戦い)。
この戦いにおいて、歴然とした兵力の差を見て取った忠澄は、「四国はここ20年の兵乱で疲弊して人心も戦に倦み、武具も軍馬もくたびれて、颯爽とした上方(羽柴軍)の物とは比較にならない。とくにここ数年は農耕もままならず兵糧も乏しく、上方と長く戦うことはできない。これらのことを考えると敵することは不可であろう」として元親に降伏を進言した。これに対して元親は忠澄を「臆病者め、一宮城に帰って腹を切れ」と叱責したというが、のちにはこの進言を受け入れ、秀吉に降伏するに至った。
長宗我部氏も動員された九州征伐に従軍し、天正14年(1586)12月の戸次川の合戦で討死した長宗我部信親の遺骸・遺品を請い受けるために島津氏への使者役を果たした。信親の遺骸を荼毘に付し、遺灰を持って高野山に上って奥の院におさめ、同時に戦死した土佐兵7百人のために供養の石塔娑を建立した。
天正年間には土佐国幡多郡の中村城代となって西辺の防衛にあたった。この頃、囚人を使役して入野浜に松を補植させたという。
慶長5年(1600)11月7日に同所で没し、中村の正福寺に葬られた。享年67。
3人の子があり、長子は戸次川の合戦で戦死、次子は僧となり、末子の加兵衛が家督を継いだ。