一宮(いちのみや)城の戦い

宿願の土佐国統一を果たし、さらには伊予国・讃岐国・阿波国をも併合して四国全土の統一を果たした長宗我部元親は、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦の際に徳川家康方に呼応するなど、反羽柴秀吉の態度を取っていた。しかし小牧・長久手の役の後に家康をも臣従させた秀吉が、そうした元親をそのまま放っておくわけがなかった。
元親の方でも秀吉の勢力は警戒しており、できることなら穏便に済ませたい、と考えていたようである。天正13年(1585)3月の秀吉による紀伊征伐のおり、元親は重臣の谷忠澄を使者として、秀吉に和睦を申し入れたのである。
それに対して秀吉は「阿波・讃岐・伊予の3国を差し出し、元親は直ちに上洛せよ。土佐国を与える」と命じたのである。しかし元親はこれに承服せず、領内の防備を固めた。とくに、畿内に近い阿波に主力を投入して秀吉勢の来攻に備えたのである。

秀吉は6月、ついに四国征伐の軍を興した。弟の羽柴秀長を総大将として堺から淡路国洲本に渡らせ、もう一隊は豊臣秀次を大将に播磨国より淡路の福良に渡らせた。阿波へと差し向けた兵力は5万余といわれる。さらに宇喜多秀家蜂須賀正勝らが率いる2万3千の兵が讃岐国の屋島に、また毛利輝元小早川隆景・吉川元長ら4万の兵が伊予国の新間に上陸した。全軍合わせると、11万もの大軍が元親に襲いかかったのである。
この11万の秀吉方の軍勢と長宗我部軍が四国の各地で衝突することになったが、勝敗の帰趨を決したのは、一宮城をめぐる攻防戦であった。
当時、一宮城では谷忠澄が北城を、江村親俊が南城を守り、天嶮の要害を利用して5千の城兵で5万の攻城軍をはねのけていたのである。ところが水路を断たれたために籠城の継続が困難となり、ついには秀長の説得により谷忠澄が降伏を決意。忠澄は白地城にいた元親のもとに出向き、秀長の意向を伝えた。
はじめ元親は激怒し、忠澄の弱腰をなじったが、忠澄は怯むことなく重臣たちにも得失を説き、重臣らもこれに賛同して元親を説得したために元親もついには折れて秀吉への降伏勧告に同意し、ここに秀吉の四国征伐は完成したのである。
元親は伊予・讃岐・阿波の3ヶ国を没収された。