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                   江戸消防記念会     E1-01  09.12.13 写真等勝手に使わないで
                                                 

 江戸時代から引き続づいた「町火消」の組織が、明治になっても「消防組」として、引き継がれた。
その後、明治から大正、昭和の時代となり、日華事変から太平洋戦争へと進む中で、
昭和14年(1939年)4月に、勅命により廃止され、それらの組織は戦時下の「警防団」となった。

  その時に、旧「消防組」の構成員は、二百数十年の歴史を誇る“江戸消防”の伝統と文化を保存すべく、
  昭和14年4月(消防組の廃止と同時)に任意の団体として「江戸消防記念会」を発足させた。
  当時、会の組織は、明治時代からの流れをそのまま引き継ぎ6大区40組240名の体制で発足した。
 
  その後、戦局の悪化により、江戸消防の象徴であった纏(まとい)や半纏(はんてん)などが焼失したが、
  戦後、昭和21年5月25日に、戦前から行っていた殉職者の慰霊祭を復活させることができた。以後、
  次第に当時の会員の努力により、纏なども整備され、昭和22年2月に纏授与式が挙行され、戦後の
  活動の第一歩となった。

  それまでの6区から次第に、東京区制の復興ととともに拡大し、昭和59年の足立区の編入により、現在の
  11区87組制ができあがり、今日に至っている。(「江戸消防」創立50周年記念誌から)

  「江戸消防記念会」は、その創設を昭和14年4月(1939年)に置かれ、
「江戸町火消」の伝統と火消文化の保存・継承を
目的とし、現在の活動が続けられている。

  戦後の消防組織は、昭和23年3月7日の組織法施行により、自治体消防制度が発足し、東京消防庁を始め、
  各地に、今日の消防組織が出来ている。その時に、消防本部・消防署と同時に「消防団」も組織されている。
  このため、消防署・消防団と「江戸消防記念会」とその組織の仕組みや目的は、異なるものである。


   2. 江戸・東京を守った心意気

ここで、再度、分かりやすく「江戸消防」を見てみる。
 江戸の町は、徳川幕府によって、それまでの土地とはまったく異なる都市計画によりできた町です。
 当初は、江戸城を中心として、武家屋敷があり、軍事都市として形成され、警察・消防なども範疇であった。

 そのため、大名などによる任務制としての消防組織「大名火消」ができ、さらに、直属方式に移行して
 奉行所による「定火消(ジョウビケシ)」が成立している。
 旗本により組織された「定火消」は、与力・同心の下に「臥烟(がえん)」と呼ばれる人足により組織され、
 江戸城下に10ケ所「定火消屋敷」(宝永元年当時)があった。これらは、軍事都市としの江戸城下を守る
 意味から、主として江戸城・武家屋敷の消火活動であった。
 
 その後、町家(まちや)の発展により、その地域での「消防」を担うために、大岡越前の指導で、「町火消」ができ、次第に、
整備され10番(区割り)の「いろは48組」と大川(隅田川)以東の3組(区割り)15番が「町火消」組として整備された。

 

 現在の「江戸消防記念会」の方

  浅草神社前にて。第五区の江戸消防組
 
その後、徳川幕府の消滅により、明治政府となったため、定火消(官制消防)の制度が消滅し
 東京の町は、火災等の治安の悪化が懸念された。 このときの、明治元年から明治8年の間、全くの
 無政府状態に近くなり、混乱が懸念されたが、従来の「町火消」組がその任務を自主的に担った。
  そのため、当時、「東京を火災から守ってくれた。」との強い認識がある。さらに、明治から大正
 までは、制度的にも、「町火消」の消火活動が大きな活動力となった。
(注; 日本の歴史では、話しの中で、大正から昭和初期の時代が抜けることが多い)
 
         

 明治政府は、明治8年から東京の警察制度の整備と合わせて「消防制度」も整備と、蒸気ポンプ車などの
 機械化を進め、同時に、従来の町火消の組を警察の消防制度の中に組み込んだ。

このため、江戸時代の「いろは48組」の町火消制度が、警察署の下で編成変えとなり、さらに、明治14年
 に都下6消防署が設けられると、その消防署ごとの6区の枠に入れられ、その区の中に「組」を作る形となった。

 この編成変えにより、江戸時代からの「いろは48組」等の組織・言葉はなくなり、「○○区〇〇番」の
 枠組みが、用いられ、「江戸消防記念会」の組織もその編成変えの枠組みを用いて、組織されている。
 

左表が、江戸時代の「いろは
 48組が1番から10番の番に
 組み込まれていた。
 これは、火消し口を争って、
 けんかがあることから、その
 抑制策で、出動地域・範囲を
 定めておく役割となつている。

 ひ・へ・ら・んは、百・千・万・本
 の言葉に変えられており、
 深川・向島などの大川(隅田川)
 の東は、南・中・北の組に編成
 されていた。

 明治政府は、パリの町並みを
 見本として、東京を組織したこ
 とから数字による区域制を定
 めた。
 第1大区が、第一消防署の
 管轄区域で「日本橋消防署」
 第2大区が、芝消防署。
 第3大区が、麹町消防署。
 第4大区が、本郷消防署。
 第5大区が、浅草消防署。
 第6大区が、本所消防署。

 なお、時代の中で名称異動を
 しており、浅草が上野、本所が
 深川となっているが、元の所在
 は、浅草、本所である
 
 このように、伝統的な「いろは」の文字が消えすべて1番~10番等の数字となり、現在もこの
 「数字標記」が「江戸消防記念会」の組織構成となっている。
 

   3.現在の組織体制
 
 記念会に参加されている会員は、11区87の組のどこかに加入して活動されている。
  新年の出初式から始まり、さまざまな地域の伝統的な活動に、半纏を着て参加される。
 
  会員は、火消気質と言われる「義理と人情と痩せ我慢」を信条として、祖先を崇拝し、目上を敬い、
古い伝統やしきたりを重んじるという日本人的日本人の気質を持って、会を支えています。(江戸消防記念会のH.Pの文書から)

  現在の区制別の地域は、第1区が、元の第1大区を引き継ぎ、千代田区の一部・中央区。
  第2区が、同様に、消防の第二方面を引き継ぐ、港区の一部・品川の一部。
  第3区が、港区の麹町、新宿区の牛込・四谷、千代田区の一部と渋谷区。
  第4区が、文京区、豊島区、千代田区・新宿区の一部。第5区が、台東区の浅草・上野、荒川区、千代田区の一部。
  第6区が、江東区の本所・深川、墨田区。第7区が、品川区の大井・荏原、大田区。
  第8区が、目黒区、世田谷区。第9区が、新宿区の新宿、中野区、杉並区。
  第10区が北区、板橋区、練馬区。第11区が、足立区。        
      この地域は、消防署などの管轄的なものではないので、大まかなものと考えてください。

  現在は、「江戸消防記念会」に参加して活動できる人は、「鳶職」の人達に限られている。

  そのため、東京都鳶職連合会のメンバーとダブっていることが多い。
  鳶職の職は、技能検定が必要で、誰もが、何の技術もなく、できるものではない。   

   4.しきたり
       出初式

 新年の東京で行われる出初式は、「東京消防出初」であり、「東京消防庁出初式」ではない。
  出初式は、「定火消」の行事として、万治2年1月4日に上野東照宮前で江戸時代に行われ、
  「町火消」も「初出」と呼んで、地域ごとに行うようになった。

  明治になって、消防の新年の気持ちを表すものとして、明治8年1月4日に皇居前の丸の内で
  消防組を一堂に集めて「東京警視庁消防出初式」を開催し、以後、現在に続いている。

  戦後は、昭和24年に自治体消防発足後の出初式を「東京消防出初式」として実施された。
  毎年、1月6日の東京消防出初式の開式に先立って、「江戸消防記念会」による始め式が挙行されている。

  下写真は、8時30分。
  東京消防庁幹部の前に勢ぞろいした「江戸消防記念会」の会員各位。
  名誉顧問・会長からの新年挨拶があり、その後、9時30分東京消防出初式に合流する。

        入 場
  この日に、出初式会場を跳ねてから、各地区の「出初」行事をしている組もある。

         5.大盃(おおさかずき)の儀式
 「大盃」の儀式は、新年会を始めるにあたっての大事な儀式です。
 挨拶の口上  式典に基づく盃の掲揚  上座から
 下座へと進む  新年を祝する木遣り  おさめの盃の後の口上
 
 この式典は、新年にあたり、組員一堂が今年も「事故もなく、一年がすごせますように」と
 祈念して、「全体」又は各「区」で行われる。
 始めに口上がみあり、杯を受け持つ方が一糸乱れず、一つひとつの動作を「流れる」ように進めていく。
はじめの盃は、上座から下座へ、運ばれて、流れていく。木遣りの後に、おさめの盃が、
今度は下座から上座へと流れていく。 たぶん、上座の意志を全員が受け止め、下座の方の思いを上席が受け入れる、
そのような意味合いの中で、「命を懸けた仕事への気合」が新年行事として行われるのではと思う。

 それにしても、式典の運びの難しを肌で感じる。
= 日本の社会は「形」を尊ぶ、究極の形が、命と引き換えとなる忠誠なのかと、思う。
 茶道や華道、弓道、柔道に至るまで「形」を“自分のもの”として、初めて、その組織の
 構成員たりえる。安心の「平常心」は「形」の習得に尽きるのが、日本社会の姿かなと思う。=

6.梯子乗り(はしごのり)
 東京の新年を飾るの最もふさわしい行事が
 この「はしご乗り」だ。
 消防は、はしごが必需品。江戸の時代から
 その梯子を如何に使いこなすかが、消火活
 動の神髄であったものと思う。
 右写真は、区役所前で江戸消防の人が
 行う「はしご乗り」。新年の「寿ぐ(コトホグ)」
 にふさわしい、見せ場だ。
 この絵が最も基本の「膝八艘(ハッソウ)」だ
 
  
 「はしご乗り」には、身軽さと胆力が必要で、威勢と気迫とイナセを信条として、行わせる演技である。
 この「はしご」は、高さ約6.5m(三間半)、巾が約48cm(一尺六寸)と定まり、はしごの支えの鳶口
 は、約2.5m(八尺)を4本、約1.8m(六尺)を8本で支えることになっている。

 技(わざ)には、大分類として
         ① 頂上技 =  八艘、遠見、邯鄲(カンタン)などのはしごの先端部で行う技が、16近くある。
? 返し技 =  肝つぶし、背亀などの背面での難しい返し技が12近くある。
            ③ 途中技 =  膝掛、谷覗きなどの頂上技からの途中やはしごを昇り降りする際に行う技で12近くある。
   ④ わっぱ =  はしごにかけた「輪っぱ」に足や手をかけて見せる難しい技で、12近くある。
つごう4種目、52近い形の技があり、どれを見てもすばらしいものである。

 
   一本邯鄲    枕邯鄲   背亀   鯱落とし

 これらの技は、伝承されるべく、各区ごとで研修会として、何日もかけて訓練が行われている。
 そのための技の手引き書として、当時の技を書き留めて、昭和55年は発刊された「梯子乗り技つくし」が伝えている。

 先輩からの指導を受けた訓練の成果として、可能な演技であって、とてものこと、見よう見まねで
 これを行うと、垂直の高さ3.6mは、先端まで登ると高度感があり、落下すると大怪我ではすまない。
 「江戸消防記念会」又は「地域的な伝承者(加賀鳶など)」以外は、絶対やってはいけない演技。
[ 梯 子 乗 り 見 学 席  ]
 1月6日東京消防出初式は、広い場所で一斉に
 行われるので、見応えがある。お台場
 5月25日消防殉職者慰霊祭は、浅草寺境内で行な
 われ、観客も少なく、近場でじっくり見られる。
 

 この2つのイベントが、江戸消防記念会の各区が都内で、一堂に会して「梯子乗り」演技となっている。
 天候や見やすさから言えば、出初式より、5月の浅草寺だが、どちらも、以外と短時間で終わってしまう。
 
 来年(22年1月6日)東京消防出初式では、屋外以外に、ホール内での演技も考えられている
 ので、寒い外より、室内で、じっくり(説明入り)で、その「技」を楽しまれたほうがベターかなと思う。

 
 「梯子乗り」の技を伝える書
 梯子と言う漢字が、当代、見当たらない字だ。

 初めに出てくる「頂上技」の「八艘」の中の
 「膝八艘」だ。細かいしぐさのあり方、が示
 されている。
 これらの細かい「形」が、日本の伝統とも
 言える妙技であり、その細かさを知ると、
 ますます面白さがわき出てくる。
 
 江戸消防以外でも、町火消の伝承ではなく、「大名火消」の「臥烟(がえん)」を引き継いで、地元に持ち帰って
 伝承させているものに石川県金沢の「加賀藩」
の「梯子乗り」などがある。
 いずれも、地元の地域で行っている所は、火消を命ぜられた「大名」で、格式のある大藩の所である。


 7.木遣り(きやり)
 
 もう一つの大きな伝承芸が「木遣り」だ。
 外での華が「梯子乗り」なら、内での格式が「木遣り」だ。
 木遣りは、かなり古くから、全国にあり、土木などの共同で行う労働時の「掛け声」でもある。
 しかし、全国のそれは衰退して、「木遣り」として伝承保存されているのは少なく、火消活動と合わせ
 て日常的な掛け声の「木遣り」を残しているのは、「江戸消防記念会」ぐらいとなっている。

 江戸の街は、人工的に作られている箇所が多く、築城・埋め立て・給水・河川工事など、人の手が
 入っていない所がない、と言えるほど、人工都市である。あの大きな荒川ですら、明治から大正に
 かけて掘られた掘割でしかない。その意味で、「木遣り」は欠かせない合いの手であったようだ。

 現在の江戸消防の「木遣り」は、昭和28年にマチマチだったものを編纂し直して、昭和35年「江戸
 消防」の木遣定本として、残されているのを、各区で受け継いで、口伝と伝承されている。

 現在の「木遣定本」に従うと、目次から全99の木遣歌詞が納められている。
 風習や地域、作業などを読んだ歌となっている。
 東京では、区などの地域の新年顔合わせ、祝い事の際の始め、起工式などを飾る際に「木遣り」が
 歌われ、また、葬儀なども故人の業績を忍んで歌われる。
  まな鶴

 よーおーんー
 やりよーおー
 えーよー
 おーおーおー
 各地の神社境内に奉納され
 ている「木遣塚」。ここを詣で
 ることがしきたりでもある。
 編纂された「木遣定本」
 当時はたいへん苦労さ
 れてまとめられた。
 木遣りのはじめの
 代表的な歌、「真鶴」
 読み込んでみたが、「正解」  かどうかは保証しません??

 朱書きで、歌の節回しを示している。
 どのように正確に歌うかは、江戸消防記念会の人に聞かないと、分からない、です。

  8.纏(まとい)
 
 江戸の町火消の「纏」は、時代劇を賑わすシチュエーションです。
 昭和12年小石川で発生した火災で、纏を立てている新聞記事があり、戦前までは、十分に活躍したもの
 と思われます。各組には「組頭・小頭・筒先・纏・階子」などと役名が今の残され、纏持ちは重要な任務で
 あることがわかります。もともとは、「定火消」だけが認められていた制度で、後、町火消にも「許可」され、
 しかし、馬楝(バレン)などは簡素に表記することしか認められていなかった、と言われています。 
 いろは48組時代の8番組「ほ組」の纏。
 馬楝や頭は「無印・白」となっている。
 もともとの「いろは48組」町火消の纏
 は、そっけないものだった。
 同じ「ほ組」が、東京市政の中で編成替えし、
 浅草の消防署の「第五消防署」に所属した。
 第五区1番組となる。纏の形は同じだが、
 馬楝などの印や、半纏の模様も変わった。
 
 江戸の華と囃される、それぞれの組の色合いと言える。
 「江戸消防記念会」の纏は、東京市で編成変えされた時の装いを、現在も踏襲している。

        
 5月25日浅草寺境内に勢ぞろいした、各区各組のまとい、この写真では、左端が4区9.10組
 梯子の隣に5区1組~10、梯子を隔てて6区6組~9組が並んでいるのが、わかる。


 = 結びに = 少なくとも、私が拝命当時の昔は、江戸消防記念会所属の鳶職の方が「消防団員」として両立されて
 活動されていた方も大勢おられた。しかし、次第に現行の「消防団業務」が地域の防災指導リーダとしての業務が増えたり、
また、二股では「忙しすぎる」とのことで、江戸消防記念会の方と消防団員とは違った構成メンバーとなった。それでも、
何人かの人は両立して活動されている。
 東京消防庁の職員であっても、「江戸消防」のことを知らない人も多く、その意味では、このページは写真入りで、分かりやすく説明した。
 東京消防の出初式(毎年1月6日)は、屋内ホールで、「江戸消防記念会」の出番で、是非、じっくり見ていただきたい。 

 このページの構成にあたっては、
 左の 「木遣定本 ・ 都の暁、江戸の花、梯子乗技つくし」を参考とし、
 江戸消防創立50年誌、江戸消防記念会ホームページ、
 白井和雄氏の文献などを参考とさせていただいた。
 江戸時代の消防については、白井氏が最も造詣が深く、参考引
 用のほとんどはこの方からの文献です。