桓武天皇(かんむてんのう)の政治の
引きしめについて
【くずれた律令政治(りつりょうせいじ)】
聖武天皇がめざした仏教中心の国家、仏(ほとけ)の力で民衆を救おうとする理想は思うようにはならなかった。国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)、都の建設、大仏の建設などでいっこうに民衆の苦労は軽くならず、かえって、重税や労役(ろうえき)で生活が苦しくなった。民衆は田をすて逃げ出すようになり、田畑があれはてた。大規模な建築で国のお金も不足するようになった。その上、723年に出された三世一身の法(さんぜいっしんのほう)、743年に出された墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)により、貴族や豪族(ごうぞく)がもつ土地がふえ、土地と民衆は天皇のものであるという公地公民制(こうちこうみんせい)がくずれた。これ以後、律令政治(りつりょうせいじ)が乱れ、天皇の力が弱くなり、貴族たちが力が強くなっていく。
三世一身の法(さんぜいっしんのほう)
新しく切り開いた土地は、本人、子、孫の3代の間、私有を認める法律
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)
新しく切り開いた土地は永久に私有することを認める法律
これにより、貴族や豪族(ごうぞく)の土地がふえ、公地公民制
(こうちこうみんせい)がくずれた。
【桓武天皇(かんむてんのう)の政治】
桓武天皇(かんむてんのう)は、このような律令政治(りつりょうせいじ)の乱れを受けて、政治の引きしめをおこなった。
(1)平安京(へいあんきょう 京都府)へ都を移す。
794年 桓武天皇(かんむてんのう)は、寺院の勢力が大きい平城京(へい
じょうきょう 奈良県)から、平安京(へいあんきょう 京都府)へと都を移した。
また、大きな寺院が平安京(へいあんきょう)へと寺院を移すのを禁じた。
このようにして、僧が政治に口を出せないようにし、聖武天皇(しょうむてんの
う)以来の仏教政治を断ち切った。
(2)田畑を捨ててにげ出した農民(のうみん)を厳しくとりしまる。
田畑を捨ててにげ出した農民をとりしまり、再び登録をし、自分の田畑にもど
るように指導した。また、貴族や寺院が勝手に田畑を開いたり、売り買いする
ことを禁止した。
(3)勘解由使(かげゆし)という官位をつくる。
地方の国の責任者である国司(こくし)が交代するときに、不正が行われ
ないように、勘解由使(かげゆし)をおいて監視(かんし)し、地方の政治を
引きしめた。
(4)兵役(へいえき)の制度を改正する。
農民を兵士にする制度は、兵士の質が悪くなり、その上、農民の負担(ふた
ん)も大きくなるため兵役(へいえき)の制度を改正した。地方の豪族(ごうぞく)
の一族から、弓馬(きゅうば)に優れた者を兵士としてとることにした。この制度
を健児(こんでい)とよんだ。
(5)蝦夷(えぞ 東北地方のこと)の平定を行う。
桓武天皇(かんむてんのう)は、蝦夷(えぞ)を支配するために、3回 蝦夷
(えぞ)征伐(せいばつ 反乱をおさえること)を行った。
1回目 … 789年 紀古佐美(きのこさみ)が将軍となり、衣川(ころもが
わ)あたりまで進む。
2回目 … 794年 大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が将軍となり行われ
る。
3回目 … 801年 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が将軍とな
り、蝦夷(えぞ)をほぼ平定する。胆沢城(いさわじょう)をつくり、
ここを鎮守府(ちんじゅふ)とする。
【桓武天皇(かんむてんのう)の政治のその後】
桓武天皇(かんむてんのう)とその後の平城天皇(へいぜいてんのう)、嵯峨天皇(さがてんのう)によって、一時的には律令政治(りつりょうせいじ)は立てなおされた。だが、律令政治(りつりょうせいじ)のしくみそのものが、国の実態にあわなくなってきていた。
貴族による大土地の所有はますます進み、荘園(しょうえん)が広がっていくことになる。このようにして、天皇中心の政治はおとろえ、藤原氏による摂関政治(せっかんせいじ)がはじまることになる。