豊臣秀吉(とよとみひでよし)の政治について
付書院
【一国一城(いっこくいちじょう)について】
天下を統一した豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、再び戦乱(せんらん)の世にもどらないようにするためにいろいろな政策を行った。
●知行(ちぎょう)あらため
知行(ちぎょう)とは大名が家臣にあずけて治めさせる土地のことである。
家臣がこれまで治めていた土地から別のよその土地にうつすことを知行
あらためという。この知行あらためをすることで、家臣が勢力をたくわえ、大
名に反抗する力をなくし、下剋上(げこくじょう)がおこることを防ぐようにした。
●城わり
今まで家臣が治めていた土地にある砦(とりで)や小さい城をこわしてしま
うことを城わりという。この城わりを行うことで、家臣や農民が反乱をおこす
根城(ねじろ)をなくした。
↓
これにより、大名が治める国には一つの城しかないことになり、これを
一国一城(いっこくいちじょう)という。
●国がえ
大名を家臣まるごと別の国に移すことを国がえという。これにより大名が
領地の町人や農民たちと固く結びつき、豊臣秀吉に反抗する力をたくわえ
るのを防ぐようにした。
最大の例が徳川家康(とくがわいえやす)である。徳川家康は、愛知県、
静岡県、山梨県などに領地を持っていたが、小田原征伐(おだわらせいば
つ)の功績(こうせき)を名目に関東に国がえを命令された。これは、豊臣
秀吉の大阪城から徳川家康をできるだけ遠ざけようという考えからであっ
た。
〈 豊臣秀吉が支配したころの主な大名 〉
【太閤検地(たいこうけんち)について】
太閤検地(たいこうけんち)とは、田畑の面積を測量し、面積の大小、土地のよしあしに応じてとれる米の量をきめることである。その特徴(とくちょう)は、全国で統一された基準を用いたことである。その基準(きじゅん)として
@ 6尺(しゃく)3寸(すん)(191p)の長さをを1間(けん)
1間(191p)四方の面積を1歩(ぶ 3.65u)
30歩(ぶ)の面積を1畝(せ 109.5u)
10畝の面積を1反(たん 1095u)
10反の面積を1町(ちょう 10950u)とした。
A 土地のよしあしによって上・中・下・下々の4等級にわけ、それぞれの土
地からとれる米の標準の石高(こくだか)を決めた。
B それぞれの土地からとれる標準の石高(こくだか)にもとづき、3分の1は
農民に残し、3分の2は年貢(ねんぐ)としておさめる。
C 米の量を測るときに使う枡(ます)の大きさがまちまちであったので、京枡
(きょうます 京都周辺で使われていた枡)に統一した。
京枡(きょうます)…底が14.8p四方の正方形で高さが8.2pの枡
この太閤検地(たいこうけんち)の結果、
@ 土地とそこを耕す農民がきまり、農民を土地にしばりつけた。
A 日本の土地の土地の面積と米のとれ高がほぼ正確にわかった。
【刀狩(かたながり)について】
1588年 豊臣秀吉は全国的に刀狩(かたながり)を行った。その命令は次の3か条であった。
@ 農民が刀や脇差(わきざし)、弓、やり、鉄砲などの武器を持つことを固く
禁(きん)じる。よけいな武器をもって年貢(ねんぐ)をおこたったり、一揆
(いっき)をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰(ばつ)する。
A 取り上げた武器は、今つくっている方広寺(ほうこうじ)の大仏のくぎや
かすがいにする。そうすれば、農民はあの世まで救われる。
B 農民は農具だけを持って耕作(こうさく)にはげめば、子孫代々(しそん
だいだい)まで無事(ぶじ)にくらせる。農民を愛するから武器を取り上げる
のだ。ありがたく思って耕作にはげめ。
今まで農民は戦いのたびに、武士のように武器を持って戦いに参加していたが、この刀狩(かたながり)により、農民と武士との区別ができ、武士が農民を支配する体制ができあがった。
【バテレン追放令(ついほうれい)について】
織田信長(おだのぶなが)は寺院や一向一揆(いっこういっき)の勢力を弱めるためにキリスト教の布教(ふきょう)を許した。豊臣秀吉も最初は寺院勢力をおさえるためにキリスト教の布教(ふきょう)を許していた。
だが、天下統一が進み、武士による支配体制が整うにつれて、キリスト教の考え方がじゃまになってきた。キリスト教ではデウス(神)が絶対の存在であり、豊臣秀吉も他の大名も神のもとにあるため、豊臣秀吉の命令でも神の教えにそむくことにはしたがわないという考え方であった。そのため、キリスト教を信じる大名の中には豊臣秀吉の命令に従わない者(高山右近 たかやまうこん)などもあらわれた。そこで、豊臣秀吉は、バテレン追放令(ついほうれい 宣教師のこと)をだした。
@ 日本は神国(しんこく)であるから、キリスト教を広めるのはよろしく
ない。
A 神社仏閣(じんじゃぶっかく)をこわすのはよくない。何事も秀吉の
命令に従え。
B バテレン(宣教師のこと)は国内におけないから、本日から20日
以内に帰国せよ。
C 南蛮貿易(なんばんぼうえき)による商売は続けてよい。
D 仏法(ぶっぽう)をじゃましないものは、キリシタンの国を行き来して
よい。
これ命令を見てもわかるように、キリスト教の教えを広める宣教師(せんきょうし)は追放(ついほう)するが、貿易はこれまでどおりしてもよいという考え方で、豊臣秀吉は自分の国の利益を中心に考えていたことがわかる。
【五大老・五奉行(ごたいろう・ごぶぎょう)について】
豊臣秀吉は、その政治のしくみを整え、支えるために、五人の合議制(ごうぎせい)による最高機関をつくった。これが五大老(ごたいろう)である。五大老(ごたいろう)には、有力な大名が選ばれた。徳川家康(とくがわいえやす)、毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、前田利家(まえだとしいえ)の5人が選ばれた。
また、五大老(たいろう)の命令のもと、実際に行政や事務などをおこなう役職として五奉行(ごぶぎょう)をおいた。五奉行(ごぶぎょう)には、前田玄以(まえだげんい)、浅野長政(あさのながまさ)、増田長盛(ましたながもり)、石田三成(いしだみつなり)、長束正家(なつかまさいえ)が選ばれた。
この他に、有力な商人であった小西行長(こにしゆきなが)、茶道の師匠(ししょう)の千利休(せんのりきゅう)などが豊臣秀吉の政治を支えた。