豊臣秀吉(とよとみひでよし)の天下統一について
付書院
1582年 本能寺の変(ほんのうじのへん)で、明智光秀が反逆し、織田信長
(おだのぶなが)が自殺する。
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山埼(やまざき)の戦い…(豊臣秀吉 VS 明智光秀)
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明智光秀(あけちみつひで)が農民に殺される。
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い…(豊臣秀吉 VS 柴田勝家)
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柴田勝家(しばたかついえ)が自殺する。
1583年 大阪城(おおさかじょう)の建設を始める。
1584年 小牧長久手(こまきながくて)の戦い(豊臣秀吉 VS 徳川家康)
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徳川家康(とくがわいえやす)との戦いでは引き分ける。
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後に徳川家康は豊臣秀吉の家臣となる。
1585年 紀伊(きい 和歌山県のこと)、和泉(いずみ 大阪府のこと)、越中
(えっちゅう 富山県のこと)、四国を平定する。
豊臣秀吉が関白(かんぱく)になる。
1587年 九州を平定する。(豊臣秀吉 VS 島津義久)
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島津義久(しまづよしひさ)が降伏(こうふく)する。
1590年 関東を平定する。
(小田原征伐 おだわらせいばつ)
(豊臣秀吉 VS 北条氏直、氏政)
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北条氏政が切腹(せっぷく)する。
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奥州(おうしゅう)の伊達政宗が家臣になる。
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奥州(おうしゅう 東北地方のこと)を平定する。
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全国全国が統一される。
【天下統一までの詳しい流れについて】
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豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、毛利氏(もうりし)との戦いのために高松城(たかまつじょう)の水攻めを行っていた。1582年6月2日、主君の織田信長(おだのぶなが)が家臣の明智光秀(あけちみつひで)に本能寺(ほんのうじ)で殺されたことを知ると、豊臣秀吉は毛利氏と仲直りし、軍を京都へとって返した。 |
← オレンジ色
が豊臣秀吉
の領地
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豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、反逆した明智光秀(あけちみつひで)を山崎(やまざき)の戦いでうち破った。明智光秀は逃げる途中に農民によって殺された。清洲会議(きよすかいぎ)で豊臣秀吉は織田信長の領地の中から、今の京都府、兵庫県、奈良県の周辺の領地を獲得した。 |
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豊臣秀吉は織田信長の有力な家臣であった柴田勝家(しばたかついえ)と対立するようになった。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家をうち破った豊臣秀吉は、石川県や福井県周辺に勢力をのばした。前田利家(まえだとしいえ)を石川県の大名とした。 |
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1584年に豊臣秀吉は小牧長久手(こまきながくて)の戦いで徳川家康(とくがわいえやす)と戦うが、逆に徳川家康に敗れ決着がつかなかった。そのため、徳川家康と同盟していた伊勢の織田信雄(おだのぶかつ 織田信長の次男)をやぶることで徳川家康を孤立(こりつ)させ、仲直りした。
1845年には四国の大名の長曽我部元親(ちょうそがべもとちか)を降伏(こうふく)させ、四国を平定した。そして長曽我部元親を高知県の大名とした。やがて、対立していた徳川家康も豊臣秀吉の家臣となった。 |
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1587年3月、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、毛利氏(もうりし)を先頭にして九州に軍を進めた。島津義久(しまづよしひさ)は必死で戦ったが、大軍と大量の鉄砲にはかなわず、豊臣秀吉に降伏し、九州が平定された。島津義久を鹿児島県の大名とした。 |
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1590年3月、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、徳川家康(とくがわいえやす)を先頭に関東に軍を進めた。北条氏政(ほうじょううじまさ)、北条氏直(ほうじょううじなお)の親子は小田原城(おだわらじょう)に立てこもった。豊臣秀吉は関東の北条氏の領地を次々に征服し、小田原城を取り囲んだ。7月に北条氏直は降伏し、高野山(こうやさん)に追われた。北条氏政(ほうじょううじまさ)は切腹(せっぷく)し、北条氏はほろび、関東が平定された。
このとき、東北地方最大の大名の伊達正宗(だてまさむね)は、死を覚悟して死装束(しにしょうぞく)で豊臣秀吉の前にあらわれ、豊臣秀吉に許され家臣となる。
8月に徳川家康は、今までの静岡県、山梨県などの領地のかわりに関東を与えられ、江戸(えど)に入る。 |
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残る東北地方で豊臣秀吉に従わない大名の領地を取りあげた。これにより、豊臣秀吉は、1590年に天下を統一した。 |
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が豊臣秀吉
の領地