S君登場 5日目
マンダレー−バガン
今回のメイン目的、世界仏教3大遺跡の町バガンにやって来た。
バガンは広大な砂地に大小さまざまな寺院・元寺院が点在している。 その寺院達は遺跡というせいか王朝か何かの違いのせいか、ヤンゴン等のような 派手な装飾の寺院郡ではなく、形は凝っていたが土造りの素朴な色合いのものが 多かった。 寺院群地域の広さを体感しながら自転車で風を切って、日に焼けながら観光。
ちょっと爽やか風だが、俺の通った道には血が点々と落ちている。何故でしょう。

この町では日本人の旅行者とたくさん会った。しかも、すれ違う時にこんにちはと言って くれる、俺の好きなタイプの日本人旅行者が多かった。
余談やけど、日本人旅行者には何故、 外国で日本人と会うと露骨に嫌な顔をしたり、わかりやすく無視してくれる人達が多いのだろう。 話しかけてくれる事や、話しかけて友達になる事を期待してる訳ではないののだが。

この日、大怪我?をした俺は、それがきっかけで女の子2人(2人共Nさん)と知り合った (詳しくは、<旅の出来事>に。)。 そしてこの夕日を見に来た寺院でもS君と知り合った(これもいつか載せます。)。

そして夕食はS君とNさん達と一緒に中華料理。
この3人は後に俺が勝手に「ミャンマー友の会」と名付けた。S君もNさん達も楽しい旅を してきたようで色々な国の話題に花が咲く。

ポッパ山 6日目
ポッパ山
前日のNさん達(くどいようだが2人共Nさん)とガイドをシェアしてポッパ山へ向かう。 ここも不思議な場所だった。写真を見てもらうとわかるが、こんな岩山に寺院とは、 頑張ったネー。という印象。
岩山に沿って造られた回廊を回りながら上っていく。この岩山にはたくさんの猿がいた。 日本猿系の猿。攻撃的ではないが、臆病でもなく、俺らの周りをうろうろしてる。 ミャンマーで動いている野生動物を見たのはこれだけだったような気がする。

NさんとNさんは、世界3大遺跡のことを知っていたばかりか、完全制覇の道を 歩んでいた(最終的に達成した)。絵葉書をもらった。
日本の旅行者は女の方がたくましいと思う。飄々としてるし。

だるま子又はだるま美 貧乏旅行やきつい旅行を自慢げに話すのはみんな男という印象が強い。 彼らが持つ湿度と匂いを俺は好きになれない。人が旅する理由は人それぞれなので、 それについて何か言うつもりは全くないけど、単純に、自慢系バックパッカー君 の話は退屈なんだよ。他人にすごーいと言われるのが目的で旅をしてるのか? 旅には「通」なんか存在しないと俺は思っている。だから悪いけど そういう人達とはすぐにさよならするが、そうじゃない人達とは話していて楽しいので 一緒に食事したり、日程の一部を共にしたりという感じになる。

話が逸れた。ポッパ山へ行く途中の参道に道なりに点々と卵形の赤い物体が乗っかってる。 正体はミャンマーのだるま。そしてフルメイク。日本人からするととても違和感がある。 女だったのか・・・。これが選挙事務所に置いてあるような政治家には多分投票しない。
シュールで嫌いではない感じだけど、彼女1体だけではなく彼女達はいた。 集団でいられるとちょっと気持ち悪い。

ミンミン家近所 7日目
バガン
またバガンの遺跡群を爽やかにサイクリングしていく。
今日の昼食は、前々日に一番上の写真の夕日がきれいな寺院で知り合った現地の女の子 ミンミンの家に呼ばれていた。ちなみにミャンマー人は名前の付け方が生まれた曜日に よって決まっているらしい(本当かどうか定かではない。)。この食事にいたるまでの 詳細などはこれも<旅の出来事>に。
それは少し後味の残る思い出となった。

ある程度バガンの中は見尽くした感があったので、昼食後少し遠出する事にした。 バガンの端から端まで自転車でGO。
途中で大型バスに乗った日本人ツアー(平均年齢かなり高め)と遭遇した。 最初は理由を知らず、この国に来るツアーがある事自体に驚いた。

その後、このツアーの人達は俺が土産を物色していた店に偶然に入ってきた。 俺はその時、何故かこの店の娘(推定5歳)に妙に好かれたらしく、ちょっと土産物を 買っただけで、彼女に山ほどおまけをつけてもらっている最中だった。
それはS君に教えてもらったビルマ語の「かわいい」という単語を彼女に1度 言った(その単語、もう覚えていない。)せいか?理由は不明。
だが母親もしょうがないわねえという顔をしながら、俺にプレゼントと言って色んな 商品を店内のあちらこちらから持ってくる女の子を止めもしない。おかげで俺の 持っていた袋ははちきれそうになっていた。ひょっとして新手の商法か?と思ったけど、 結局その分は全て本当にタダになってしまった。 オーバーでなく、買ったものよりもらったものの方が確実に多かった。

日が暮れるとちと怖い ご老人達は、熱心に次々と色んなものを運んで来る女の子と「もういいって!」と かなり慌てた様子で日本語で彼女に話しかけている俺の姿が面白かったらしく、 土産物よりもこっちを見ていた。

彼女とのやり取りが一段落したところで、笑いながら一番近くにいた人達に話しかけられた。 この方々は戦争でこの国に来ていて、ここで亡くなった戦友の墓を訪ねるツアー との事だった。その話は衝撃だった。皆さん柔和な顔で話してくれたが、 それは実際にこの方々が体験された出来事。そしてこんな遠い地で命を落としたたくさんの 日本人がいる。

逆光すぎ ツアーの方々と別れた後、1人で寺院に上って夕日を見ながら考えた。
そうして戦争の犠牲となって、日本へ帰りたいのに帰れないまま異国の地で亡くなられた たくさんの人達がいて、今の俺達がいるのだ。俺達はただ観光でミャンマーの地に来る事ができる。
そしてこういう事を考えてはいけないのかもしれないが、異国の地で自分がもし死んで、 墓があったとして、50年近く経った時に参りに来てくれる友が俺にはいるだろうか? 特殊な状況だったと言えばそれまでだが、俺にはそこまでの友はいない気がした。
この旅は色んな人と会って、その人の話しで色んな事を考えた旅だった。


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