会員掲示板へ※パスワードが必要です!会員掲示板へ※パスワードが必要です!原稿の投稿をするにはKJKネット利用方法事務局へ問合せ
 トップページ > 会員投稿ページ > ネット対談ヒューマノミックス
| 対談トップへ |
| 前ページに戻る| トップページへ戻る|
「ヒューマノミックス」を21世紀のパラダイムに
  山本 克郎 (21世紀政策研究センター・小島志ネットワーク代表幹事)

はじめに−ヒューマノミックス誕生の背景と現状
 20世紀の後半は、第2次世界大戦後に東西冷戦が世界を覆い、厳しい状況におかれます。1970年代までに、米国もベトナム戦争の泥沼に落込んで苦い経験をしますが、この間生態系の破壊や環境問題が深刻化していきます。環境破壊への警鐘はレイチェル・カーソンの「沈黙の春」に始まり、自然環境保全へ向けたローマクラブの警告やストックフォルムの国際環境会議の宣言があります。日本は、戦後経済復興に続く急速な高度経済成長によって、アメリカに次ぐ第二の経済大国になりますが、その過程で公害が多発し、環境問題、都市問題などが噴出します。これらが、シューマッハーの「スモール・イズ・ビューティフル」、ロエブルの「ヒューマノミックス」、小島慶三の「人間復興の経済学」の誕生となり、Humanomicsが人々の関心を惹きつけた背景です。
 しかし、その後、ベルリンの壁が崩れ、米ソ首脳のマルタ会談で東西の和解が成立し、冷戦の終結となりましたが、世界各国の期待に反して、地域紛争の激化を招き、国際情勢はボーダーレス化がグローバル化へとつながっていきます。日本国内ではバブルとその崩壊によって「失われた90年代」を迎えます。
 こうして、内外ともに、21世紀への課題を解明する暇もなく、21世紀に入りましたが、国内では、小泉首相が登場して抵抗勢力を排し「構造改革」を推進し、国際的には、ブッシュ大統領が9月11日を契機に宣戦布告なき「テロとの戦い」に没頭していきます。このように、いずれも21世紀の課題とその解決を目指す方向を示していません。残念ながら、ヒューマノミックスをめぐる議論も置き忘れられたような状態が続きました。


問題の所在を探る
 第一次、第二次世界大戦、冷戦も世界を巻き込んだ大戦でしたから20世紀は、「戦争の世紀」でした。これらの戦争は、現代文明がもたらした科学・技術の急速な進歩によって、これまでの戦争とは、規模、性格を一変させ史上類を見ない深刻な惨害をもたらしました。大規模化した戦争は広範な一般市民を対象にして無慈悲な殺戮が行われ、特に、核兵器・毒ガス・生物兵器など大量殺戮兵器・非人間的な兵器の開発が戦争の性格を変えました。その後の長い冷戦は米ソ両超大国をも疲弊させ、東西和解となりましたが、平和の回復を望む世界の期待に反して、紛争が各地に起こり、拡大していきました。それは、21世紀に受け継がれ、アフガン戦争、イラク戦争なって、行方がみえない戦争の泥沼、絶え間ない紛争とテロリズムの中で人々の暮らしが脅かされています。
 現代文明が、創り出した大量生産、大量流通、大量消費、大量廃棄のシステムが人類生存の場である地球の環境に異変をもたらして、生態系の破壊、温暖化、砂漠化、土壌汚染、海洋汚染、河川・湖沼の汚染、大気汚染、気候変動、異常気象、オゾン層の破壊等などの地球環境の破壊を急速に進めて持続困難な事態を招来しています。
 世界各国の人々の健康は、地域に根ざした食材、食文化によって、バランスの取れた食生活によって維持されるのですが、現代文明のグローバル化は、「飽食と利便性」を世界中に広め、多くの国々で肥満が蔓延しています。こうした食生活・食文化へのダメージは、多くの人々の生活を変容し、生活文化を歪め、生活習慣病を広げて、人類の暮らしの環境、内なる環境の破壊を進め、生活と健康の基盤を根底から揺るがせています。
 現代社会は、なぜ、どうして、こうした諸課題に直面しているのか、歴史的にその経緯を辿り、原因と構造から、問題の本質を究明することが必要です。
 私たちが直面しているこれらの深刻な問題群は、現在、私たちの身の回りで、日常的に起きている政治や経済の問題、社会的な事件、事故、犯罪、更に環境悪化、自然災害等にも深く関連しています。それらの多くの問題は、現代社会のパラダイム、現代社会の価値観に基づく社会システムに起因しています。その成り立ちと因果関係にメスを入れて、問題を解明して、解決の方向を見出すことが求められています。


人間の本質である「生命」から人間の在り方を考える
 宇宙の誕生に始まり、地球が誕生し、地球に生命が誕生してから現在まで、生命体は長い歴史を辿ってきました、更に、私たちの祖先となる人間が誕生してから、今日まで20万年の歴史があると言われます。生命体の中で、人間は一番後の方で誕生したから、ヒトゲノムには、生命誕生以来辿ってきた38億年の歴史が含まれています。そのゲノムの特質を基にして、社会システムの在り方を考えることが出来ます。
 それは、「人間とは何か 何処から来て、何処へ行くのか」という最も根源的な本質的な問いを出発点にして、生命体としての人間とその社会をどう認識するのか。その人間観/価値観を「パラダイム」として、人間とその社会の在り方を考えることです。
 現在地球上で生きている64億人のヒトゲノムは、99%同じであり、その違いは僅か1%に過ぎません。更に、64億人のうち、ヒトゲノムは全く同じ人は一人もいませんから、全ての人はただ一人他と異なるかけがえのない存在ということが出来ます。このことが、本来、すべての人間は、基本的人権を享有し、人種、性別、年齢、職業、宗教、信条、国籍等を越えて等しく尊重されるべきだとするという根拠は此処にあると考えます。
 ひとそれぞれが、等しくかけがえのない存在であることは、生命の誕生と出生に由来しています。全ての人の命は、父親の精子と母親の卵子が結合した「一つの受精卵」に始まりますが、それは、自然の摂理ともいうべき何百億とも知れぬ精子の中の一つと何百とも知れぬ卵子の中の一つの出会いに始まります。受精卵が着床し、母親の胎内で養い育てられて、無事出生する迄には知られざる数多くのドラマがあります。
 生命はすべて、細胞で出来ていますから、ヒトの命も受精卵という一つの細胞に始まるのですが、その0、1oに満たない一つの細胞は母親の子宮に着床し、分裂を始めると、一つの細胞が分裂して二つのコピー細胞がつくられ、その二つのコピー細胞が更に分裂して四つのコピー細胞がつくられます。こうして母親の胎内に宿った命が,胎児へ、人の誕生へ向けて発育していきます。通常10月10日といわれる胎内での期間に、細胞の数は3兆個、重さにして3sにまで成長しますが、この間母親は、胎児の栄養補給、排泄物の処理等安全な生育のすべてを担うのです。どんな人もこうした生きる営みを経て、はじめて、この世に生まれ出るのです。


人間とは何か、文化の伝承を尋ねる
 太古の昔から人類は、宇宙をどう見るか、自然をどう見るか、人間をどうみるか、自分自身とその誕生の由来をどう考えるか等など、問い続け、考え続けてきたと思われます。
 「人間とは何か」という問いは人間が文化を生み出したとき以来の問題です。人間は一人では生きて行けない生物ですから、自らの生存を図るために協働して集団で社会をつくり、直立歩行によって、自由になった手を活用して、道具や火を使い、進化を遂げてきました。
 その結果、生物の中でも特有な知識や技術を蓄積し伝承し、言語や絵画等の「文化」を創造して、人間とその社会の自己創出と自己制御(社会秩序の形成と維持)によって、人々の幸せと社会の繁栄に役立てて来ました。
 宗教、思想、哲学を生み出し、自らの社会規範をつくり、社会秩序を維持してきました。自己制御も生命体とその集団が持つ特性であり、それは必ずしもまっすぐな道ではなく、絶えざる試行錯誤、逸脱や修正が伴ったでしょう。これまでに、数多くの誕生した文明が衰亡し、没落してきたと思われます。
 この中で「人間とは何か」は人類が常に探求してきた課題であり、それは主に宗教が担ってきました。アニミズム、多神教、一神教などそれぞれの時代の人々に大きな影響を与えてきました。
 こうした宗教や思想、哲学は、自然をどう見るか、その自然観によって、その「人間観」も異なり、社会における人間の在り方、「社会観」「価値観」にも様々な違いを生んできました。
 私たちが現在直面している問題は、それを引き起してきた近代文明、現代文明がつくりだした矛盾ですから、現代の自然観、ひいては社会観、価値観に由来しており、近代文明とその基礎となり、根拠となってきた思想、哲学を問い直してみる必要があります。


問題意識の底流にある西欧文明批判の視点
 世界史を辿ると近世から近代へかけて、ヨーロッパ諸国はアメリカ大陸、アジア大陸、アフリカ大陸、オセアニア、太平洋諸地域と競って版図を広げ、各地域を侵略しました。それは、白人優位の苛酷な植民地支配でした。
 その歴史は、ルネッサンスから産業革命を経て、獲得した科学・技術の優位を武器にして制覇を遂げ、19世紀には欧米列強による世界支配を確立しました。20世紀は、覇権の争奪をめぐって、2度にわたる世界大戦と冷戦が繰り広げられました。
 こうした潮流は、欧米先進国を中心とする経済力の優位によったグローバリズムという形で開発途上国の伝統的な生活や文化を荒廃させてきました。
 それは同時に、全地球に自然環境と生態系の破壊を及ぼし、現在人類が遭遇しているような地球環境を破壊に導く発火点となりました。その意味でも、西欧文明への歴史的な批判と反省が必要です。
 20世紀は史上類を見ない悲惨な第2次大戦が終って、間もなく、東西の対立が激化し、第3次世界大戦ともいうべき冷戦に突入しました。それは、40余年も続き、両陣営とも疲弊して、東西和解のマルタ会談が開かれました。にも拘わらず、東西の和解が進むと再び地域紛争や宗教的対立の火の手が各地に上がり、その対応に追われて、21世紀を迎えました。
 21世紀の人類社会の在り方を考えるとき、この千年を世界史的に問い直し、世界を支配してきた欧米思想の反省、近代主義の超克が語られるべきではないでしょうか。21世紀は単に新しい百年としてではなく、人類世界のパラダイムを構築する新しい千年のスタートとする必要があったと思います。ヒューマノミックスはそうした問題意識を底流に持っています。


日本自身は自国の歴史を問い直して、教訓を
 徳川幕府の下で、久しく鎖国を続けてきましたが、19世紀半ばに、亜米利加、英吉利、仏蘭西、阿蘭陀、露西亜等の欧米列強が武力を背景にして、幕府に開国を迫りました。彼らの植民地支配を逃れるために、幕府はやむなく開国し、大政奉還を余儀なくされて、尊皇攘夷は、一転して維新開国となりました。
 1868年、明治新政府は、五ヵ条のご誓文を発し、「富国強兵、殖産興業」を旗印に、近代国家への道を開きました。こうして始まった日本近代史は1945年8月ポツダム宣言を受諾して太平洋戦争の敗戦によって77年の幕を閉じました。
 その後、連合国の占領政策の下で現代史がスタートし60余年を経過して現在に至りました。
 この日本の近代:明治維新(1868年)〜太平洋戦争敗戦・無条件降伏・占領(1945年)の総括と日本の現代:戦後(1945年)〜現在(2007年)の評価、その近代・現代の批判と評価が求められています。それは、史実と体験を基とした反省・評価を自らの手で行う必要があります。
 これは、日本が、世界に、人類社会のあり方を問い直す上で不可欠の課題であり、21世紀に入る過程では、是非とも行われるべきことでした。それには、わが国の近現代史の歴史的な主体的な認識と評価が不可欠だと考えます。さらに、広く人類史の研究成果を基礎に、東洋、西洋の思想の再評価、宗教ではキリスト教などの一神教と仏教や日本的な多神教の比較考量も重要な素材となるでしょう。当然、パラダイム論と価値観に始まる伝統的経済学の吟味や近代経済学批判も欠くことができません。こうした問題意識で、国際社会の一員として、国際的な議論を展開し、行動して貢献するべきだと思います。


近代文明を支えてきた哲学の問題を検討する
 人間は認識し、判断し、創造するという特性を持って「文化」を形成してきました。人間が何を、どう見るかという点が大変重要です。見方の違いで注目される点は、物事を一元的に見るか、二元的に解するか、それによって考え方も、生き方も大きく違ってくるのです。こうした認識論、哲学に関して西洋と東洋ではかなりの違いがあります。
 西欧列強が世界を制覇したことで、西欧文明の基礎なってきた哲学は、現在の世界に、深い影響を与えています。当時のヨーロッパの支配階層の考えや、貿易、芸術、科学の活動を特徴づけたユダヤ教・キリスト教主流の影響は二元論的なものだったといえます。その二元論の起源は「神が世界を造り、自らの姿に似せて人間を造り、人間に地球の支配権を与えた。神は人間に地球を支配し、繁殖するよう命じた」という、神と世界が分離している旧約聖書の創世記にあります。
 ヨーロッパ文明は、こうしたキリスト教の影響や神の呪縛からの解放を求め、ルネッサンスを経て、数学や物理学に基礎をおいて、数量的に比較考量する「物」の「知」が求められて新しい科学や哲学が発展しました。
 その背景には、18世紀、19世紀そして20世紀のエリートたちの物質主義的野心を実現するためには、神秘主義的非二元論的なキリスト教徒を排斥する必要があったこと。また、宗教が当時のヨーロッパの支配層の植民地計画、産業企画、政治構想と手を携えて進むためには、デカルト哲学、ニュートン物理学、ダーウィン生物学、フロイト心理学を主流のキリスト教徒に押し付ける必要があったからです。
 その代表的な哲学者の一人、デカルトは「我思う故に我あり」と宣言し、科学的方法論を取り入れました。彼の出発点は「懐疑」で盲目的信仰が強要されて抑圧された時代に「懐疑」は必要であり、有用な道具でしたが、デカルトの懐疑は行き過ぎで、信頼を放棄し、懐疑と二元論が西洋文化の支配的パラダイムとなって、現在にまで及んでいます。


近代科学の批判の上に、科学のあり方を検討する
 どういう自然観を持つか、自然をどのような方法論で理解するかということは、科学のあり方にとって重要なテーマです。
 科学とその自然観の変化をみると、16世紀から17世紀に近代科学が誕生することで、ギリシャ以来2000年近く、ヨーロッパでの基本にあった自然の扱い方が崩れて、ガリレイ、ニュートン、デカルト、ダーウィンなどによる新しい自然観に変わっていきます。
 ガリレイは、質的自然観を量的自然観に変えました。
 ニュートンは、万有引力によって天も地も同じ法則に支配されているという自然観を示しました。宇宙を機械として捉え、人間の必要に従って制御でき調整できる精巧な時計であるとした。その視点からすれば、人間や動物の体もまた機械だったのです。
 デカルトは、心身二元論によって、宇宙全体が機械のように動いており、人間も機械とみなす機械論的自然観に立っています。宇宙は生命のある有機体ではなく、動物は、心、感情、意識を持たず、宇宙を操作するために唯一必要なことは、自然の法則を理解することであると考えて、近代科学の哲学的基礎を築きました。
 ダーウィンは、種や種の中の個体は互いに競争関係にあり、強い種が弱い種を支配し、最も強いものだけが生き残ると考えました。この進化論によると、私たちがなすべきことは強くなることであり、そうすれば私たちは支配的な種になれるということになります。
 近代西欧文明が生んだ科学は、ギリシャ以来の有機体的自然観から機械論的自然観へ大転換することによって、生命的自然を否定し、今日に至るまで大きな影響を与えています。
 19世紀には、科学を基盤にした技術、そのような能力を持った技術者が求められ、職業としての科学者や学会が誕生します。ミシン、自転車が生まれレーヨン、セルロイドなどの化学製品が作られて、機械と化学物質に囲まれた現在の生活への変化が進んでいきます。
 日本は、このヨーロッパで科学と技術が近づき始めた時期に、開国し、近代化、西欧化を目指して、それを導入してきました。
 20世紀の30年代に入ると、量子力学と相対性理論が誕生し、ミクロレベルで研究、物性論、高分子化学が生まれます。科学が技術の基本となり、技術が工業製品につながっていく時代に入ります。
 第一次、第二次世界大戦は、巨額の戦費を投入して兵器の開発を行う科学技術が支えた戦争でした。第一次大戦では戦闘機、潜水艦、毒ガス、第二次大戦ではジェット機、ロケット、レーダー、原子爆弾、コンピューターも、ペニシリンも軍需産業の一つとして進められました。
 しかし、20世紀の科学技術の世界にも変化が起きてきます。本来、生命が先にあって、科学技術は後からですから、「物」を基本とした「知」から、「生命」を基本とする「知」への移行です。
 日本発の「生命科学」の研究です。それは、20世紀型の価値観から、「生命」を基本に置く価値観への転換を試みています。近代科学は、その歴史的な経過を振り返って、デカルトに代表される二元論の哲学を問い直して、新しい科学を拓く必要があります。


「生命」の本質と歴史について
 生命は科学だけで捉えきれませんが、生命の理解に科学が重要な役割を果たすことが期待されます。特に、1970年代に、江上不二夫東大教授らによって始まった日本発の生命科学とそれを受け継いだ中村桂子博士(JT生命誌研究館長)らは、新しい生命誌という境地をひらきました。生命の成り立ちと進化の歴史や生命の構造と機能の解明が進められています。
 生命活動は生活活動によって支えられています。生命誌と生活科学の研究成果、生命と生活に関する事実・真実と道理・真理からも「人間とは何か」、「命とは何か」、「暮らしとは何か」を解明する手がかりが得られるでしょう。
 生命科学・生命誌が解き明かしているところによれば、すべての生きものは、長い生命の歴史、生命の流れの中に存在するものです。新しく生まれる一つ一つの個体が生きる過程は、自分の中に入っている生命の歴史を紐解くことで、ヒトも体の中にある38億年の生命の歴史は他の生きものと変りがありません。
 38億年前、地球にはじめて誕生した生命は、細胞から、多細胞、植物・動物と進化の歴史をたどって、ヒトまで到達して200万年の時間を経過し現在に至っています。その細胞には核があり、核には遺伝子があって、ゲノムがあります。それは、生命誕生以来一続きのつながりにつながっています。
 現在、地球上の生物は5千万種とも言われ、多様な生きものが暮らしています。しかし、それらは、一つの例外もなくDNAを基本物質としているということは最も重要なことです。生きものはすべて細胞でできており、DNAは必ず細胞の中に入っています。その中に入っているDNAが、生きることを支える基本として働いています。これに、生きものすべての普遍性を見ることが出来ますから、生きものは、すべからくみんな同じ仲間ということが出来ます。
 ヒトも、他の生命体と同じく体内にゲノムをもっています。それはヒトの誕生以前の、生命誕生の歴史以来一続きになって、今日のヒトにつながっています。ヒトゲノムも生命体のおかれた環境条件下で、進化する過程で、自己を変革し、自己を創出してきました。
 生命が地球に誕生してから、地球は生命系と非生命系のものが共存し関連しあって変化を重ねてきました。生命系の生きものが「生きる」ということは、「自己保存」と「種の保存」、食物と生殖の確保を生きる営みとして、命を維持し、伝えてきました。そのために欠くことが出来ない「食」は、生命体間の連鎖を造り、それぞれ、その食物連鎖の中で、環境条件に適応しながら進化を遂げてきました。したがって、すべての生きものは、食物連鎖として、生態系を作ってきました。自然環境がこの生態系を成り立たせてきました。自然環境が保全される中でしか生態系は存続しないから自然環境の破壊は、生態系の乱れを引き起こします。生命体の一つである人間も、生態系の中で誕生し、食物連鎖の中で、進化して今日に至っています。
 食物連鎖のバランスをくずし、生態系を乱すことは自然破壊につながり、自らの生存の基礎を揺るがして、それ自身の存続が困難になる結果を招来します。


生命科学・生命誌などから学ぶこと
 ヒトは生命体としての普遍性を共有しながら、それぞれの個体は一つとして同じものはないという多様な存在を形づくっています。したがって、すべての人は皆それぞれ、かけがえのない存在ということが出来ます。ヒトのもつ「普遍性」と「多様性」こそ、人間の特徴であり、人間社会のシステムにも適用すべき特性です。
 成人したヒトは概ね60兆個の細胞からなっていますが、それは、両親から譲り受けた一つの受精卵(ゲノム)にはじまり、その一つの細胞が分裂を繰り返していく過程で様々な細胞となって、体の機能を分担して体を作り上げて行きますから、この60兆個の細胞は同じ一つの細胞のコピーで出来ています。それが、体のすべての部分を担い、それぞれ機能を分担しています。
 生命体とその歴史は、見方によっていろいろな見方が出来ます。生きるための争いは食物連鎖が示しているように、食うか食われるかという関係ですから、その意味で、争いは、生命の発生のときから存在し、それは避けることが出来ない生命体の「業」というべきものです。しかし、それは、お互いが他の存在を必要としており、共生しています。また、競争を通じた共生によって、適者生存となり、進化のメカニズムを形成してきたと見ることも出来ます。人間の歴史も久しく戦争に明け暮れる歴史でしたが、それは、人間特有の文化の形成と文明の発展を齎してきました。
 近世から近代に至って著しい科学、技術の発展を促して社会、経済、生活に大きな変化をもたらしたと同時に人間同士の争い、「戦争」の形態や規模を一変させるような変化をもたらしています。核兵器やミサイルの開発は、戦争そのものを廃絶へ向けなければならないという時代を迎えています。


「ヒューマノミックス」のパラダイムと価値観について
 「近代科学」の名において、近代経済学は、パラダイム論抜き、価値観抜きで経済学を論じてきました。経済は人間社会の問題を扱うのですから、人間を避けて、人間抜きでの議論は問題を解き明かすことが出来ません。結局、経済学は、功利主義の市場原理、自然法思想を前提として、これの隠れ蓑としてきました。それは、現実に、「営利を追求する自由」、「利潤を優先することを容認する」社会秩序を前提としてきました。また、「自由な研究開発を認める」ことで「科学技術による利潤追求」、「利潤の追求に科学技術を利用する自由」を承認してきました。
 このため、20世紀は目覚ましい科学技術の発展によって、飛躍的な経済成長を遂げ、かってない経済繁栄を齎したといわれています。しかし、その反面では、これによって世界各国・地域の人々の暮らしや幸せが損なわれ、地球の環境と生態系の破壊を進める役割を果してきた。戦争の手段に核やミサイルが用いられ、止まるところを知らない核を含む軍拡競争の時代を招いたということができます。
 21世紀には、テロとの戦争が泥沼状態に入り、経済成長によって地球環境の破壊が加速して、地球温暖化を始め、異常気象の多発など事態は深刻の度を増しています。こうした人間社会を制御する手立てを新たに創り出さない限り、矛盾は益々深刻化し、破綻への道を転げ落ち、人類は生存と存続の条件を失っていくことになるでしょう。
 21世紀は、その問題の根底にある「人間とは何か」という問い直しに始まって、これまでの人間の英知を取り戻すことにあります。ヒューマノミックスは、その担い手としての哲学を基礎にしてパラダイムと価値観を鮮明にして、それを実現するための社会システムを提唱することを目指しています。
 シューマッハーの後継者の一人であるクマールは、現代社会の主流となっている二元論を「分離する哲学」と批判して、「関係を見る哲学」を提唱しています。
 それは、「木を木として捉え、幹、枝、葉、花、果実の集合とは見ない。また森を森として捉え、異なった種類の樹木、動物、鳥、昆虫、小川、その他の生命体の集合とは見ない。それは世界を見て、その全体を見る。種は競争関係ではなく共生関係にある。地球上に生きることは生存のための戦いではなく、むしろ地球は生命を育み高める家庭なのだ。相互関係とは相互利益が存在の基本原則である。相互利益がある所には必ず相互関係がある。すべての種は、一つの地球共同体のメンバーなのだ。」と述べています。
 また、彼は、ジャイナ教は、「太陽は植物に光を与え、植物は鳥に果実を与え、鳥は種を運び、種は自らを土地に与え、そして土地は種に命を与える」、「すべては与えてくれている」言い。仏教徒は、この現象を「相互依存の現象(因縁生起)」と呼び、仏陀は、これに気づいた時に悟りを開き、ニルヴァーナ(涅槃)すなわち解脱の状態に達した。しかし、すべての生物が悟りを開くまでは一人だけのニルヴァーナはあり得ないと仏陀はいった。と指摘しているのは重要なことだと思います。
 人間の本来の在り方として、生き方そして何が大切なのかを気付かせてくれる哲学です。


21世紀のパラダイムと社会システム
 生き物は、このようにみな、自他との共生を基本として、自己保存と同時に種の保存を第一義としています。種が保存できない生き物は絶滅種になります。より良い社会を次世代へ繋ごうとすれば、「子ども」を大切に、子育ての環境条件を優先的に大事にすることが生きものの基本です。子どもが親を殺したり、親が子どもを虐待したり、子どもが学校でいじめられたり、自殺する事件が毎日のように伝えられるようになっている現状は、既に滅亡の道を進んでいるのですが、この危機感すら希薄だということは、明らかに末期的症状というほかありません。
 人間の本質は「生命」ですから、「生命」をパラダイムの根底に据えると、第一義的なものは、「いのち」であり、「いきる」ことです。具体的には自己保全と種の保全、即ち、人々の暮らしと次の世代を育てることです。今の社会が最も問題にしている経済成長や景気、「カネともの」、「カネの流れ」、「ものの生産」、「サービスの提供」、それらの流通や分配などは、誰の目にも、二義的、三義的なものに過ぎないことは明らかです。
 そうして、それを実現する社会システムが生命進化の歴史から学ぶとすれば、最も注意しなければならない点は、人々の暮らしと自然環境の保全を第一義とし、利潤を目的とする市場経済の支配と利潤追求に促される科学技術の開発を制御する社会システムの構築が課題となるでしょう。
 環境に適応し、変革、創造、制御して進化する社会システムが課題として取り上げられることになります。この場合、最も大事なことは、ものやカネではなく、人材の育成です。家庭でも学校でも地域でも、人材の育成をあらゆるプロジェクトの根幹に据えるべきです。
 
 「ヒューマノミックス」のシステム論は、人間(生命)を一番の基本とし、一番大切なものは人間(生命)が生きること(くらし)、です。社会、経済、科学、技術、教育、文化等などが人々の幸せのために最も役立つ社会システムへ転換することです。
 社会システム論は、このパラダイム論を基本として具体化を図ることですが、こういう視点と観点から現状を問い直して行く必要があります。それは政治、経済、社会、教育、福祉、文化、科学技術、あらゆる分野からどう問題を解決していくかという視点で吟味されることになるでしょう。その経過の中から、そのシステムの在り方が問われなければなりません。
 これをどうするかを考えるのは政治の役割です。これを21世紀社会の社会規範、法規範、モラルの基礎として問い直す構造改革が必要で、その理念に立った、立法、行政、司法とそのシステム、公共のシステムと民間のシステム、その連携の構築を図ることが求められます。また、内政と外交は表裏ですから、この理念を内政に具体化し、その国内政策を基盤とした国際関係の在り方をもって対外政策とすることです。


□参考文献
・「スモール・イズ・ビューティフル−人間中心の経済学」E・F・シューマッハー著 小島慶三・酒井懋訳 講談社学術文庫 1986年刊
・「ヒューマノミックス経済学における人間の復権」エウゲン・ロエブル著 斉藤志郎訳 日本経済新聞出版社 1978年刊
・「自己創出する生命−普遍と個の物語」中村桂子著 哲学書房 1993年刊  ちくま学芸文庫 2006年刊
・「生命誌の世界」中村桂子著 NHK出版 2000年刊
・「君あり、故に我あり−依存の宣言」サティシュ・クマール著 尾関修・尾関沢人訳 講談社学術文庫 2005年刊


この原稿内容のPDFファイルをダウンロードできますこちらから
※この対談のご感想、ご意見をメールまたは会員掲示板へお寄せ下さい

このページの上へトップページへもどる

Copyright(C)小島志ネットワーク All Rights Reserved.