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三十糎艦船連合呉支部

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第二十五号掃海艇は第十九号型掃海艇 の7番艇である。

日本海軍において最初に機雷戦を経験したのは日露戦争で、双方が係維式機雷を敷設したことから、これを啓開(障害物を除いて船舶が航行できるようにすること)する必要が生じた。 この時点では、掃海専用の艦艇は出現せず、主に艦載艇や漁船などが用いられた。 このような経験にもかかわらず、日露戦後も掃海用艦艇は出現することなく、1913年(大正2年)になって旧式駆逐艦6隻を掃海艇に改装し、横須賀、佐世保、舞鶴の各防備隊に2隻が配属されただけであった。 なお、これらは正式な掃海艇ではなく、類別上は雑役船級いとなっていた。

日本海軍で最初の専用の掃海艇として建造されたのは大正9年(1920年)度計画の第一号型掃海艇6隻である。 日本海軍では掃海艇に対して艦隊に随伴して前路を掃海する任務を想定しており、前線での強行掃海を考慮して他国の掃海艇より兵装が強力で、12cm砲2門および8cm高角砲1門を備えていた。 また主力艦隊護衛用に爆雷投射機を装備していた。 さらに機雷も搭載できるなど、多目的な艦艇であった。 ただし、主機は建造費を抑制するため、安価な直立三段膨張レシプロ蒸気機械とし、缶も燃料国策上から石炭専焼缶とされた。

1931年(昭和6年)のマル一(○の中に一)計画では、第十三号型掃海艇6隻が計画された。 第十三号型は第一号型の改正型で、艦型をいくぶん小型化した上で、必要な兵装を装備し、居住性を改善したものであった。 溶接構造の採用などにより船殻重量の軽減を図っているが、艦形は高乾舷、浅吃水でトップ・ヘビーな艦となってしまった。 主機は第一号型と同じくレシプロ機関が採用されたが、缶は混焼缶2基に改められた。  兵装は12cm砲2門および13mm単装機銃2基とされた。 1934年(昭和9年)に発生した友鶴事件により、第十三号、第十四号は呉工廠で復原性能改善が実施された。 第十五号、第十六号の2隻は、建造中に同様の改正をほどこして完成した。 第十三号型掃海艇の5、6番艇として計画された2隻は、友鶴事件の発生などにより設計を改めて第十七号型掃海艇として完成した。 主機は従来のレシプロを予定していたが、タービンに変更された。 缶は混焼缶2基で変わりない。 兵装のうち機銃は九三式13mm連装機銃一基に変更され、2番砲の防盾が除かれている。

第七号型掃海艇はマル三(○の中に三)計画で同型6隻が建造された。 なお第七号〜第十号の艦名は本型が三代目で、1930年(昭和5年)に除籍された旧三等駆逐艦、さらに1936年(昭和11年)に除籍された旧海風型一等駆逐艦、旧楢などの二等駆逐艦などの編入艇につぐものである。 主機は前型と同じくタービン2基、缶も混焼缶2基で変わりない。 兵装は12cm砲が1門増して3門となり、機銃は25mm連装機銃1基に変更されている。 砲力の強化と引き換えに、前型までの機雷敷設機能は廃止されている。

第十九号型掃海艇はマル四(○の中に四)計画で6隻とマル急(○の中に急)計画で28隻、更に改マル五(○の中に五)計画では36隻が計画された。 しかしながら、完成したのはマル四計画の六隻とマル急計画中の11隻のみであった。  艦型は前型の第七号型と比べて、基準排水量でわずか増加しているが寸法は変わっていない。 主機も前型と同じくタービン2基、缶も混焼缶2基で変わりない。

兵装は12cm砲を従来の三年式から十一年式に改め、最大仰角55度のM型砲とした。 この砲は対空用の高角砲とは異なり、陸地砲撃などで丘陵などの超越砲撃などを考慮したものといわれている。 機銃は25mm連装機銃1基で変わりない。 マル急計画の第二十五号からは、戦時建造としての簡易化が実施されたが、後の海防艦などに実施されたような徹底したものではなかった。 外見上の最大の相違は、マル四計画艇に対して艦首が直線の簡易型となっている部分である。

本型を含め、日本海軍の掃海艇は砲戦能力が大きく、爆雷も装備し汎用性があったため、竣工後は船団護衛に多く使用されている。(1)(2)

要目(3)(4)

新造時
艦種掃海艇
基準排水量 ※1648トン
公試排水量 ※2755トン
垂線間長67.30m
水線長71.30m
最大幅7.85m
喫水2.61m
主機艦本式オール・ギヤードタービン2基、2軸
主缶艦本式水管缶(重油・石炭混焼)2基
出力3,850馬力
速力20ノット
燃料石炭:105トン
重油:40トン
航続力14ノットで2,000浬
兵装45口径三年式12cm単装砲3基
九六式25mm連装機銃1基
九四式爆雷投射機1基
爆雷36発
乗員105名
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

履歴(5)(6)

年月日履歴
1942年(昭和17年)4月8日起工。
1942年(昭和17年)12月22日進水。
1943年(昭和18年)4月30日竣工。 横須賀鎮守府籍に編入。 横須賀鎮守府部隊に編入。 
1943年(昭和18年)6月1日横須賀発。 室蘭間の船団護衛に従事。
1943年(昭和18年)11月5日横須賀で入渠修理。
1943年(昭和18年)11月16日修理完成。
1943年(昭和18年)11月25日佐世保鎮守府部隊に編入。
1943年(昭和18年)12月12日佐世保発。 上海方面への船団護衛に従事。
1944年(昭和19年)2月20日横須賀防備戦隊に編入。
1944年(昭和19年)2月24日横須賀発。 父島への船団護衛に従事。
1944年(昭和19年)7月2日館山から小笠原向け船団を護衛して父島着。
1944年(昭和19年)7月4日父島二見港でアメリカ空母機の攻撃を受け沈没。
1944年(昭和19年)9月10日除籍。

参考資料

  1. 雑誌「丸」編集部編.写真日本の軍艦 13巻 小艦艇.東京,光人社,1990,p226-232
  2. 日本海軍護衛艦艇史.東京,海人社,1996,p50-63,世界の艦船.No507 1996/2増刊 増刊第45集
  3. 前掲.日本海軍護衛艦艇史.p60
  4. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p55
  5. 前掲.写真日本の軍艦 13巻 小艦艇.p214
  6. 前掲.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.p28