「八重山」は、昭和2年(1927年)度計画で建造された敷設艦(機雷敷設艦)である。
本艦は戦時には機雷敷設と対潜哨戒に従事し、平時には訓練用に従事するものとして設計されたといわれている。 機雷敷設軌条は艦尾部に4条を装備、機雷は六号機雷185個を搭載している。 兵装は45口径十年式12cm単装高角砲2基、毘式12mm単装機銃2基を装備した。 缶は混焼式2基を搭載、主機は直立三段膨張2基(4,800馬力)で、速力20ノットとされた。
「八重山」は、軍艦として初めて広範囲に電気溶接が用いられた艦であった。 艦政本部第四部から出図されたリベット構造の図面を、呉工廠で溶接構造図面に書き直して本格的な電気溶接艦とした。 「八重山」が電気溶接艦とされたのは、船体が溶接の容易な軟鋼であったことと船殻重量が404トンと比較的小さかったことが、その理由である。 ただし、外板だけは突合せ接手でなく、リベット工法と同じ重ね接手を用いた。 これは「八重山」は御紋章を戴く軍艦であるので、溶接工法が失敗した場合にリベット工法に変更して予定通りに竣工させることを図ったとされる。
本艦は友鶴事件の後、佐世保工廠で性能改善工事が施工され、艦底へのバラストキール装着、マストの短縮、後部12cm高角砲の防盾撤去などが実施された。 さらに第4艦隊事件後に強度不足が指摘され、1936年(昭和11年)秋には荒天航行中に船体の一部にバックリングを生じたことから、応急対策が施工された。 1938年(昭和13年)には舞鶴工廠で本格的補強工事を実施した。 この工事では電気熔接部に相当の改造が加えられ、板厚増加および二重張りが施工され、一部はリベット構造に改められた。(1)(2)(3)
艦名は明治時代の通報艦「八重山」を襲用したもので、八重山は八重山列島(諸島)の略である。 八重山列島は、沖縄県先島諸島の南西部を占める島嶼群。石垣島、西表(いりおもて)島、竹富島、波照間(はてるま)島,与那国島などの有人島の他、多くの無人島からなる。(4)
新造時 | 性能改善工事後 | 1944年(昭和19年)8月 | |
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艦種 | 敷設艦 | ||
基準排水量 ※1 | 1,135トン | 1,302トン | |
公試排水量 ※2 | 1,380トン | 1,631トン | |
垂線間長 | 85.50m | ||
水線長 | 89.00m | ||
最大幅 | 10.65m | 10.65m | |
喫水 | 2.84m | 3.19m | |
主機 | 直立式3気筒3段膨張レシプロ蒸気機械2基、2軸 | ||
主缶 | ロ号艦本式水管缶(重油・石炭混焼)2基 | ||
出力 | 4,800馬力 | ||
速力 | 20ノット | ||
燃料 | 石炭:255トン 重油:80トン | ||
航続力 | 14ノットで3,000浬 | ||
兵装 | 45口径十年式12cm単装高角砲2基 毘式12mm単装機銃2基 六号機雷185個 八一式爆雷投射機2基 爆雷投下台6基 爆雷投下機4基 爆雷18個 | 45口径十年式12cm単装高角砲2基 九六式25mm3連装機銃1基 九六式25mm単装機銃6基 九四式爆雷投射機4基 | |
乗員 | 180名 | ||
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
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1930年(昭和5年)6月12日 | 八重山と命名。 |
1930年(昭和5年)8月2日 | 起工。 |
1931年(昭和6年)10月15日 | 進水。 |
1932年(昭和7年)8月31日 | 竣工。 佐世保鎮守府籍に編入。 |
1934年(昭和9年) | 佐世保工廠で復元性能改善を実施。 |
1934年(昭和9年)5月21日 | 厳島と横須賀発。 調査任務のため南洋方面向かう。 |
1934年(昭和9年)8月20日 | 父島二見に帰着。 待機。 |
1934年(昭和9年)12月15日 | 佐世保防備戦隊に編入。 |
1937年(昭和12年)3月14日 | 佐世保発。 上海に向かう。 |
1937年(昭和12年)3月15日 | 佐世保防備戦隊から除かれる。 第三艦隊第十一戦隊に編入。 上海着。 以後、同方面において警備任務に従事。 |
1937年(昭和12年)7月7日 | 支那事変勃発。 漢口において警戒強化。 |
1937年(昭和12年)8月8日 | 上海特別陸戦隊漢口分遣隊を収容し、漢口発。 上海に向かう。 |
1937年(昭和12年)8月9日 | 上海着。 陸戦隊分遣隊を揚陸、響戎待機。 |
1937年(昭和12年)8月11日 | 第十一戦隊は派遣陸戦隊を編成、上海特別陸戦隊司令官の指揮下に入れ、揚陸して上海市街地の防備と陸上戦闘に従事させた。 八重山は14日まで通州方面に行動、警戒に当たる。 |
1937年(昭和12年)8月14日 | 呉淞砲台を砲撃。 |
1937年(昭和12年)8月16日 | 通州水道徐大徑口付近の陸上敵部隊を攻撃。 |
1937年(昭和12年)8月23日 | 通州水道、七了口間において警戒ののち馬鞍群島に向かい、陸軍部隊を収容して遡江。 |
1937年(昭和12年)8月24日 | 20:00敵爆撃を受けたが被害なく、川沙口着。 輸送部隊を揚陸。 上海に向かう。 |
1937年(昭和12年)12月1日 | 第十一戦隊はクロッシング上流啓開掩護により、南京攻略作戦を開始。 |
1937年(昭和12年)12月2日 | 内火艇2隻で掃海掩護に当たる。 |
1937年(昭和12年)12月4日 | 陸戦隊を巫山砲台北東約1浬に揚陸、掃蕩。 クーパーバンク南西における管制機雷掃海のため、内火艇1隻を派遣。 17:00前路啓開隊の任務を第ニ十四駆逐隊と交代して下江。 |
1937年(昭和12年)12月5日 | 内地に帰投を下命され、内地に向かう。 |
1937年(昭和12年)12月7日 | 佐世保着。 整備休養。 第十一戦隊から除かれる。 |
1938年(昭和13年)5月31日 | 佐世保発。 上海に向かう。 |
1938年(昭和13年)6月1日 | 中支部隊V作戦部隊揚子江部隊前衛部隊に部署され、遡江掃海母艦の任務に従事を下令される。 |
1938年(昭和13年)6月9日 | 13日まで安慶攻略作戦に従事。 |
1938年(昭和13年)6月14日 | 部隊は九江攻略作戦を開始。 |
1938年(昭和13年)6月25日 | 前衛部隊とともに娘々廟砲台と交戦。 |
1938年(昭和13年)7月1日 | 支那方面艦隊第三艦隊第十一戦隊に編入。 |
1938年(昭和13年)7月5日 | 部隊は馬當上流2浬に進出。 |
1938年(昭和13年)7月14日 | 前衛部隊は湖口上流3キロまで掃海と報告。 |
1938年(昭和13年)7月18日 | 前衛部隊は九江東方の敵重砲と交戦。 |
1938年(昭和13年)7月20日 | 前衛部隊は白石磯砲台と交戦。 |
1938年(昭和13年)7月25日 | 部隊は九江に突入。 |
1938年(昭和13年)7月28日 | 第十一戦隊は九江攻略作戦を終了。 |
1938年(昭和13年)8月22日 | W作戦部隊に部署され、漢口攻略作戦支援を下令される。 |
1938年(昭和13年)9月5日 | W作戦部隊は通江鎮付近において敵重砲と交戦。 |
1938年(昭和13年)9月10日 | W作戦部隊は武穴付近を制圧砲撃して進撃。 |
1938年(昭和13年)9月22日 | W作戦部隊は象山砲台と交戦。 |
1938年(昭和13年)9月30日 | W作戦部隊は半壁山付近において敵重砲と交戦。 |
1938年(昭和13年)10月19日 | W作戦部隊は黄石港を占領。 |
1938年(昭和13年)10月26日 | W作戦部隊は漢口に突入。 |
1938年(昭和13年)10月30日 | W作戦部隊は岳州攻略作戦を下令される。 |
1938年(昭和13年)11月7日 | W作戦部隊は漢口発、遡江進撃。 |
1938年(昭和13年)11月14日 | W作戦部隊は岳州に突入。 |
1938年(昭和13年)11月15日 | W作戦部隊は編成を解かれる。 八重山は内地に向かう。 |
1938年(昭和13年)12月15日 | 佐世保に帰着、整備休養。 第十一戦隊から除かれる。 佐世保鎮守府に所属。 |
1939年(昭和14年)9月25日 | 佐世保発。 南支方面に向かう。 |
1939年(昭和14年)10月24日 | 馬公着。 補給待機。 |
1939年(昭和14年)10月26日 | 馬公発。 南支方面に向かう。 |
1940年(昭和15年)11月15日 | 連合艦隊十七戦隊に編入。 |
1941年(昭和16年)2月25日 | 中城湾発、南支方面に向かう。 |
1941年(昭和16年)3月3日 | 基隆着。 待機。 |
1941年(昭和16年)4月10日 | 第十七戦隊は、第三艦隊に編入。 |
1941年(昭和16年)6月1日 | 第三艦隊は支那方面艦隊司令長官の作戦指挿下に入り、海峡部隊に部署され、南支沿岸封鎖を下命される。 |
1941年(昭和16年)6月10日 | 佐世保発。 南支方面に向かう。 |
1941年(昭和16年)6月20日 | 基隆着。 待機。 |
1941年(昭和16年)6月26日 | 基隆発。 南支方面に向かう。 |
1941年(昭和16年)8月11日 | 基隆着。 待機。 |
1941年(昭和16年)8月12日 | 基隆発。 南支方面に向かう。 |
1941年(昭和16年)9月5日 | 佐世保着。 整備休養。 |
1941年(昭和16年)11月23日 | 第十七戦隊主力(「厳島」、「八重山」)は比島部隊敷設隊に部署され、サンベルナルジノ、スリガオの両海峡に機雷敷設を下命される。 第十七戦隊主力は比島部隊と寺島水道に集結、待機。 |
1941年(昭和16年)11月27日 | 第十七戦隊主力は寺島水道発。 パラオに向かう。 |
1941年(昭和16年)12月5日 | パラオ着。 補給待機。 |
1941年(昭和16年)12月8日 | 開戦。 第十七戦隊主力はパラオ発。 サマール島北東に向かう。 |
1941年(昭和16年)12月10日 | 第十七戦隊主力はレガスピー東方350浬に到達、西に転針。 |
1941年(昭和16年)12月11日 | 「厳島」と解列。 第二水雷戦隊主力(神通、第十五駆逐隊第二小隊)の護衛を受け、スリガオ海峡に向かう。 21:00から21:25の間に、ディナガット島‐ホモンホン島間に九三式機雷133個を敷設(1線、水深30〜70m) |
1941年(昭和16年)12月12日 | 0:00単艦でパラオに向かう。 |
1941年(昭和16年)12月14日 | パラオ着。 補給待機。 |
1941年(昭和16年)12月28日 | パラオ発。 ダバオに向かう。 |
1942年(昭和17年)1月1日 | ダバオ着。 待機。 |
1942年(昭和17年)1月3日 | 第十七戦隊は解隊。 第三南遣艦隊に編入される。 ダバオ発。 ルソン島リンガエン湾に向かう。 以後、マニラ湾封鎖を支援。 |
1942年(昭和17年)1月12日 | スビック湾グランデ島攻略のため、同湾掃海を支援。 |
1942年(昭和17年)2月1日 | スビック湾において敵陸上砲兵から砲撃を受け、艦首に被弾損傷。 測量艇により掃海、4日間で機雷約20個を処分。 |
1942年(昭和17年)2月5日 | 水道外方を掃海。 9日まで水路を掃海。 |
1942年(昭和17年)2月14日 | スビック湾の掃海を終了。 |
1942年(昭和17年)4月10日 | 第三南遣艦隊は南西方面艦隊に編入される。 |
1942年(昭和17年)6月2日 | 馬公着。 工作部・において損傷修理。 |
1942年(昭和17年)6月24日 | 馬公発。 マニラに向かう。 |
1942年(昭和17年)6月28日 | マニラ着。 待機。 |
1942年(昭和17年)6月30日 | マニラ発。 馬公に向かう。 |
1942年(昭和17年)7月3日 | 高雄着。 待機。 |
1942年(昭和17年)7月7日 | 高雄発。 馬公着。 補給待機。 |
1942年(昭和17年)7月9日 | 馬公発。 マニラに向かう。 |
1942年(昭和17年)7月13日 | マニラ着。 待機。 |
1942年(昭和17年)7月21日 | マニラ発。 馬公に向かう。 |
1942年(昭和17年)7月23日 | 馬公着。 待機。 |
1942年(昭和17年)7月25日 | 馬公発。 マニラに向かう。 |
1942年(昭和17年)7月29日 | マニラ着。 待機。 |
1943年(昭和18年)1月29日 | 高雄着。 待機。 |
1943年(昭和18年)1月30日 | 高雄発。 馬公着。 待機。 |
1943年(昭和18年)2月15日 | 馬公発。 高雄着。 待機。 |
1943年(昭和18年)2月17日 | 高雄発。 マニラに向かう。 |
1943年(昭和18年)2月21日 | マニラ着。 待機。 |
1943年(昭和18年)5月9日 | マニラ発、鎌倉丸遭難者の捜索救助に当たる。 |
1943年(昭和18年)5月11日 | 鎌倉丸の生存者を収容して、ザンボアンガ発、マニラに向かう。 |
1943年(昭和18年)5月12日 | マニラ着。 人員を揚陸、待機。 |
1943年(昭和18年)9月 | サマール島東岸の敵軍を砲撃。 |
1944年(昭和19年)4月 | タウイタウイ泊地西口ボンガオ島東方に機雷敷設。 |
1944年(昭和19年)9月24日 | ミンドロ島南端(北緯12度15分、東経121度)でアメリカ空母機の爆撃により沈没。 |
1944年(昭和19年)11月10日 | 除籍。 |
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