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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

「大和」は大和型戦艦の1番艦である。  大和型戦艦は1936年(昭和11年)末のロンドン海軍軍縮条約失効をにらんで計画されたもので、1934年(昭和9年)10月に軍令部より出された要求は「18インチ砲(46cm砲)8門以上、15.5cm三連装4基(または20cm連装砲4基)、速力30ノット以上、航続距離18ノットで8000浬以上、防御力は主砲弾に対し20,000〜35,000mの戦闘距離で耐えること」というものであった。 この要求に対し、主砲配置をイギリスのネルソン型戦艦に倣った前部集中案、主機をタービンとディーゼルの併用とするなどの案が出された。 主砲前部集中は通常の配置に比較して特に優位性がないこと、主機のディーゼル機関は先行して装備した艦の実績から信頼性が低いことが問題点とされた。 また速力30ノット以上を発揮するには機関部重量の増大は避けられず、これによる艦型過大が問題となった。 各種検討の結果、主砲配置は前部2基、後部1基、主機はタービンのみとし、速力を27ノットに抑えた、公試排水量68,200トンの最終案が1936年(昭和11年)3月にまとまった。

大和
戦艦「大和」完成時

仮称第一号艦(=大和)は、1937年(昭和12年)11月4日、呉工廠で起工され。厳重な防諜下で建造された。 建造場所である呉工廠造船船渠には山側に大屋根が架けられ、呉線の一部には目隠し板が設置された。  工事に従事する工員に対しては、身元調査の上、秘密厳守の宣誓書を工場主任に提出、また判任官は各部長に、高等官は工廠長に宣誓書を提出することになった。  1940年(昭和15年)8月8日に挙行された進水式においても、1週間前から山岳地帯への立ち入りが禁止され、当日には市内で偽装の演習が行われ、市民の注意をそちらにひきつける対策がなされた。

開戦8日目の1941年(昭和16年)12月16日に竣工した「大和」は、翌1942年(昭和17年)2月12日、連合艦隊旗艦となり、同年6月のミッドウェー作戦支援に参加したものの、その後は内地で訓練に従事した。 8月にはソロモン作戦支援のため、トラックに進出したが、戦闘に参加することはなかった。  1943年(昭和18年)2月11日連合艦隊旗艦を武蔵に移揚、5月には内地に帰投した。 その後も、内地での改装や内地―トラックの輸送任務に従事し、実践参加の機会はなかった。

大和
戦艦「大和」比島沖海戦時

1944年(昭和19年)6月15日、あ号作戦発動によりギマラス泊地発。 マリアナ沖海戦に参加、この海戦で初めて三式弾による主砲射撃(対空射撃)を行った。 捷一号作戦発動により、第一遊撃部隊第一部隊(第二部隊と合せて栗田艦隊) として、10月22日にブルネイ発、24日にシブヤン海で空襲を受け、前部に爆弾1発が命中した。 25日にはサマール島沖でアメリカ護衛空母艦隊を発見、初めての対艦主砲射撃を行った。 この一連の海戦(レイテ沖海戦)で、日本海軍は空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻他多数の艦艇を失い、艦隊戦力は実質上壊滅した。

大和
戦艦「大和」天一号作戦時

「大和」は内地に帰投後、燃料不足により呉付近で待機状態にあったが、1945年(昭和20年)4月6日、菊水一号作戦発令により、二等巡洋艦「矢矧」、駆逐艦8隻とともに徳山沖を発、沖縄に向かった。 翌7日、九州南西海面でアメリカ艦載機386機と約2時間にわたり交戦、魚雷10本、爆弾5発(魚雷・爆弾の命中数には諸説あり)を受け沈没した。(2)(3)(4)

艦名

艦名は旧国名。 現在の奈良県にあたる。 初め「倭」と書いたが、元明天皇のとき国名に二字を用いることが定められ、「倭」に通じる「和」に「大」の字を冠して「大和」とした。(5)

要目(2)(6)(7)

新造時1944年(昭和19年)10月
捷号作戦時
1945年(昭和20年)4月
菊水一号作戦時
艦種戦艦
建造場所造船船渠
基準排水量65,000トン ※1
公試排水量69,100トン ※2
満載排水量72,808トン ※2
垂線間長244.00m
水線長256.00m
全長263.0m
最大幅38.9m
水線最大幅36.9m
水線下最大幅38.9m
喫水10.4mm/10.58m(公試)
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)12基
主機艦本式オール・ギヤード・タービン4基
推進器軸4軸
出力150,000馬力/153,553馬力(公試)
速力27ノット/27.46ノット(公試)
燃料重油:6,300トン
航続力16ノットで7,200浬
兵装45口径九四式46cm3連装砲3基
60口径三年式15.5cm3連装砲4基
40口径八九式12.7cm連装高角砲6基
九六式25mm3連装機8基
九三式13mm連装機銃2基
45口径九四式46cm3連装砲3基
60口径三年式15.5cm3連装砲2基 40口径八九式12.7cm連装高角砲12基
九六式25mm3連装機24基
九六式25mm単装機銃26基
九三式13mm連装機銃2基
45口径九四式46cm3連装砲3基
60口径三年式15.5cm3連装砲2基
40口径八九式12.7cm連装高角砲12基
九六式25mm3連装機50基
九六式25mm単装機銃2基
九三式13mm連装機銃2基
射出機呉式二号五型改2基
装甲水線410mm
甲板230mm
砲塔前楯650mm
砲塔天蓋270mm
司令塔500mm
航空機水上偵察機3機(定数)水上偵察機2機(定数)
乗員約2,500名3,332名
その他秘匿のため、主砲は45口径九四式40cm砲と呼称。
1944年(昭和19年)1月〜3月に両舷副砲を撤去。高角砲6基と機銃を増設。
搭載機については、菊水作戦時の4月7日6:00に対潜哨戒用に水上偵察機1機を発艦させているので、1機は搭載していたはずである。(8)

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(3)

年月日履歴
1937年(昭和12年)11月4日起工。
1940年(昭和15年)8月8日進水。
1941年(昭和16年)12月16日竣工。 呉鎮守府籍に編入。 連合艦隊に編入。
1941年(昭和16年)12月21日柱島へ回航。 警泊、訓練。
1942年(昭和17年)2月12日連合艦隊旗艦となる。
1942年(昭和17年)5月29日柱島発。 ミッドウェー作戦に参加。
1942年(昭和17年)6月14日柱島着。 警泊、訓練。
1942年(昭和17年)8月5日連合艦隊第一戦隊に編入。
1942年(昭和17年)8月17日ソロモン作戦支援のため、柱島発。
1942年(昭和17年)8月28日トラック着。 警泊、訓練整備に従事。
1943年(昭和18年)2月11日連合艦隊旗艦を武蔵に移揚。
1943年(昭和18年)5月8日トラック発。 内地へ向かう。
1943年(昭和18年)5月13日柱島着。
1943年(昭和18年)5月14日呉へ回航。 入渠準備。
1943年(昭和18年)5月21日呉工廠に入渠。
1943年(昭和18年)5月30日呉工廠を出渠。 修理作業。
1943年(昭和18年)7月12日呉工廠に再入渠。
1943年(昭和18年)7月17日呉工廠を出渠。 整備作業。
1943年(昭和18年)7月21日呉発。 速力試験、出動訓練。
1943年(昭和18年)8月16日呉発。
1943年(昭和18年)8月23日トラック着。 警泊。
1943年(昭和18年)10月17日トラック発。
1943年(昭和18年)10月19日ブラウン着。 警泊。
1943年(昭和18年)10月23日ブラウン発。
1943年(昭和18年)10月26日トラック着。 警泊。
1943年(昭和18年)12月12日横須賀に向けトラック発。
1943年(昭和18年)12月17日横須賀着。
1943年(昭和18年)12月20日トラックに向け横須賀発。
1943年(昭和18年)12月25日トラック島沖でアメリカ潜水艦Skateの雷撃を受け小破。 同日、トラック着。
1944年(昭和19年)1月10日呉に向けトラック発。
1944年(昭和19年)1月16日呉着。
1944年(昭和19年)1月28日損傷箇所調査のため、呉工廠第四船渠に入渠。
1944年(昭和19年)2月3日呉工廠を出渠。
1944年(昭和19年)2月25日第二艦隊第一戦隊に編入。
1944年(昭和19年)2月25日呉工廠に再入渠。 修理および改造工事。
1944年(昭和19年)3月18日呉工廠を出渠。 整備作業。
1944年(昭和19年)4月11日呉発。 伊予灘で諸公試。 柱島警泊。
1944年(昭和19年)4月17日呉へ回航。 輸送物件搭載、補給。
1944年(昭和19年)4月21日マニラに向け呉発。
1944年(昭和19年)4月26日マニラ着。
1944年(昭和19年)4月28日リンガ泊地に向けマニラ発。
1944年(昭和19年)5月1日リンガ泊地着。 訓練に従事。
1944年(昭和19年)5月11日タウイタウイに向けリンガ泊地発。
1944年(昭和19年)6月13日タウイタウイ発。
1944年(昭和19年)6月14日ギマラス着。
1944年(昭和19年)6月15日ギマラス発。 マリアナ沖海戦に参加。
1944年(昭和19年)6月22日中城湾着。
1944年(昭和19年)6月23日中城湾発。
1944年(昭和19年)6月24日柱島着。 整備、輸送物件搭載。
1944年(昭和19年)7月8日呉発。 陸軍部隊輸送。
1944年(昭和19年)7月10日中城湾着。 同日、中城湾発。
1944年(昭和19年)7月16日リンガ泊地着。 輸送物件揚陸。 訓練に従事。
1944年(昭和19年)10月18日リンガ泊地発。
1944年(昭和19年)10月20日プルネイ着。 燃料補給。
1944年(昭和19年)10月22日ブルネイ発。 レイテ湾に向かう。
1944年(昭和19年)10月23日パラワン水道附近で第二艦隊旗艦愛宕が被雷沈没。 第二艦隊旗艦となる。
1944年(昭和19年)10月24日シブヤン海で空襲を受け、爆弾1発が命中。
1944年(昭和19年)10月25日サマール島沖でアメリカ護衛空母艦隊と交戦。
1944年(昭和19年)10月26日シブヤン海で空襲を受け、爆弾2発が命中。
1944年(昭和19年)10月28日ブルネイ着。 燃料補給。
1944年(昭和19年)11月8日ブルネイ発。 新南群島方面行動。
1944年(昭和19年)11月11日ブルネイ着。
1944年(昭和19年)11月15日第一戦隊解隊、第二艦隊直率となる。
1944年(昭和19年)11月16日ブルネイ発。 内地へ向かう。
1944年(昭和19年)11月24日呉着。 呉工廠で入渠修理。
1945年(昭和20年)1月1日第二艦隊第一航空戦隊に編入。
1945年(昭和20年)3月19日広島湾でアメリカ空母機と交戦。
1945年(昭和20年)4月6日徳山沖発。 沖縄特攻作戦に参加。
1945年(昭和20年)4月7日坊ノ岬沖でアメリカ空母機の攻撃により沈没。
1945年(昭和20年)8月31日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p95-96
  2. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 1巻 戦艦大和・武蔵・長門・陸奥.東京,光人社,1996,p12-21
  3. ab前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 1巻 戦艦大和・武蔵・長門・陸奥.p42
  4. 呉市史編纂委員会編.呉市史第6巻.呉,呉市役所,1988,p341-347
  5. 広辞苑 第四版 電子ブック版
  6. 日本戦艦史.東京,海人社,1988,p131,189,世界の艦船.No391 1988/3増刊号 増刊第24集
  7. 石橋孝夫.日本帝国海軍全艦船1868-1945 [ 戦艦・巡洋戦艦 ].東京,並木書房,2008,p381-399
  8. 昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2).アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C08030103100(第26目画像)、.昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報,(防衛省防衛研究所)

謝辞

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