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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

同型艦「妙高」完成時
同型艦「妙高」完成時

「那智」は妙高型一等巡洋艦の2番艦である。 妙高型巡洋艦は1922年2月に締結されたワシントン海軍軍縮条約の枠内で建造された巡洋艦である。 ワシントン海軍軍縮条約では基準排水量10,000トン以下、備砲口径20.3cm(8インチ)以下の艦艇を補助艦として制限外に置いたので、各国は10,000トン、8インチ砲搭載巡洋艦の建造競争が起こった。

妙高型は、基本的に前級である青葉型巡洋艦の拡大型で、基準排水量は青葉型の8.300トンから上限の10,000トンとし、主砲は20cm砲6門から10門に強化されている。 なお、本型までの主砲口径は条約上限の20.3cm(8インチ)ではなく20cm(7.9インチ)である。 魚雷兵装は61cm発射管12門で青葉型と同等である。 前級を含め発射管を艦内(中甲板)に装備したが、これは当時の魚雷(八年式)の胴体強度が弱く、上甲板からの発射に耐えられないためであった。 しかしながら、この配置は艦が被害をうけて魚雷が誘爆した場合、艦に致命的な損害をおよぼす危険があった。 12cm単装高角砲4門から6門に強化され、航空兵装は竣工時から射出機1基を中心線に装備している。 防御は、甲板が35mm、水線部は102mmとし、12度傾斜した傾斜装甲方式を採用している。 その一方、主砲塔の装甲は破片防御程度の25mmと軽くしている。 機関部は艦本式オールギヤードタービン8基とロ号艦本式水管缶(重油専焼)12基で130,000馬力を発揮し、速力35.5ノットを得た。

那智は妙高型の2番艦として1924年(大正13年)11月26日に起工されたが、1928年(昭和3年)12月の御大礼特別観艦式に参列させるため、工事が促進され、妙高型4隻のうち最も早く竣工した。

那智
「那智」1940年時

1935年(昭和10年)2月から第一次改装に着手し、主砲の20.3cm(8インチ)砲への改正、揚弾装置の「せり上げ式」から「つるべ式」への改造を行った。 水雷兵装は、魚雷強度の向上により、上甲板からの発射が可能になったため、危険な中甲板の固定発射管を廃止し、上甲板に旋回式の4連装魚雷発射管を装備した。 航空兵装は、第4砲塔前部に飛行作業甲板を新設し、射出機も両舷に1基ずつ装備した。 対空兵装は、従来の12cm単装高角砲6門を12.7cm連装高角砲4基8門に強化した。 船体関係では、この改装による重量増加に対処して、バルジが追加された。 1939年(昭和14年)1月からの第二次改装では、九四式方位盤射撃装置の装備、25mm機銃への換装、4連装魚雷発射管の追設と九三式酸素魚雷の搭載等が実施された。 また、この改装による重量増加への対処と水中防御力強化の目的で、第一次改装のバルジを撤去し、大型のバルジを装着した。 このため、最大幅が3.39m増加し、重量増とあいまって速力は33ノット程度に低下した。

開戦後はパラオ進出、比島、蘭印作戦に参加。 スラバヤ沖海戦で羽黒、第二水雷戦隊と協同で、オランダ巡洋艦デ・ロイテル、ジャワ、イギリス駆逐艦、オランダ駆逐艦各1隻撃沈した。 1942年(昭和17年)4月に第五艦隊旗艦となり、北方で行動、アリューシャン南方作戦、アッツ島攻略作戦、アッツ輸送等に従事した。 比島沖海戦では第二遊撃部隊旗艦として出撃、スリガオ海峡で大破した「最上」と衝突し損傷した。 その後、退避したマニラ湾でアメリカ軍機の攻撃をうけ沈没した。(1)(2)

艦名

艦名は山岳名。 和歌山県南東部にある、大雲取山(966m)を最高に、光ヶ峰(686m)、妙法山(750m)、烏帽子(えぼし)山(909m)などを含む那智川上流一帯の山塊。 熊野三山の一つである熊野那智大社(那智山権現)があり,那智山はこの大社の名称でもある。(3)

「雲きゆる那智の高嶺に月たけて光をぬける滝の白糸」(西行)

要目(2)(4)(5)

新造時1940年改装時
艦種一等巡洋艦
建造場所第三船台
基準排水量 ※110,000トン13,000トン
公試排水量 ※212,374トン14,984トン(妙高)
全長203.76m
垂線間長192.39m
水線長201.50m201.70m(妙高)
最大幅17.34m19.51m
水線下最大幅18.999m20.73m
喫水5.90m6.37m(妙高)
主機艦本式オールギヤードタービン8基、4軸
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)12基
出力130,000馬力132,000馬力(計画)/132,830馬力(妙高・公試)
速力35.5ノット33.3ノット(計画)/33.88ノット(妙高・公試)
燃料重油:2,500トン重油:2,213トン(妙高)
航続力14ノットで7,000浬14ノットで7,900浬(計画)/14ノットで7,463浬(妙高・実際)
乗員792人891人(妙高)
兵装50口径三年式20cm連装砲5基
45口径十年式12cm単装高角砲6基
一二式61cm3連装固定発射管4基
八年式魚雷24本
50口径三年式2号20cm連装砲5基
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基
九六式25mm連装機銃4基
九三式13mm連装機銃2基
九二式61cm4連装発射管4基
九三式魚雷24本
射出機呉式2号1型射出機1基呉式2号5型射出機2基
装甲水線102mm、甲板36mm
航空機水上偵察機2機水上偵察機3機
その他-最終時の兵装は以下
50口径三年式2号20cm連装砲5基
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基
九六式25mm連装機銃10基
九六式25mm単装機銃28基
九二式61cm4連装発射管2基
九三式魚雷16本

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(6)

年月日履歴
1924年(大正13年)11月26日起工。
1927年(昭和2年)6月15日進水。
1928年(昭和3年)11月26日竣工。 呉鎮守府籍に編入。
1929年(昭和4年)11月30日第二艦隊第四戦隊に編入。
1930年(昭和5年)5月17日古仁屋発。 南洋方面行動。
1930年(昭和5年)6月19日横須賀着。
1931年(昭和6年)3月29日福岡発。 第一次上海事変に参加。 青島方面行動。
1931年(昭和6年)4月5日大連着。
1932年(昭和7年)2月6日佐世保発。 上海方面の警備に従事。
1932年(昭和7年)2月21日佐世保着。
1932年(昭和7年)2月27日小松島発。 上海方面の警備に従事。
1932年(昭和7年)3月7日佐世保着。
1932年(昭和7年)12月1日予備艦となる。
1933年(昭和8年)8月16日館山発。 南洋方面行動。
1933年(昭和8年)8月21日木更津着。
1934年(昭和9年)11月15日呉鎮守府籍から佐世保鎮守府籍に転籍。
1935年(昭和10年)4月1日予備艦のまま砲術学校練習艦となる。
1935年(昭和10年)7月10日砲術学校練習艦をとかれる。
1935年(昭和10年)11月15日第二艦隊第五戦隊に編入。
1936年(昭和11年)4月13日福岡発。 青島方面行動。
1936年(昭和11年)4月22日佐世保着。
1936年(昭和11年)5月25日佐世保工廠で後檣等の改造に着手。
1936年(昭和11年)6月29日改造完了。
1936年(昭和11年)8月4日馬公発。 廈門方面行動。
1936年(昭和11年)8月6日高雄着。
1937年(昭和12年)3月27日佐世保発。 青島方面行動。
1937年(昭和12年)4月6日有明湾着。
1937年(昭和12年)8月20日名古屋発。 中支方面行動。
1937年(昭和12年)8月24日大連着。
1937年(昭和12年)9月15日旅順発。 北支方面行動。
1937年(昭和12年)9月21日大連着。
1937年(昭和12年)9月29日旅順発。 北支方面行動(4回)。
1937年(昭和12年)11月16日旅順着。
1937年(昭和12年)12月1日予備艦となる。
1939年(昭和14年)11月15日特別役務艦となる。 改装工事に着手。
1940年(昭和15年)5月1日第二艦隊第五戦隊に編入。
1941年(昭和16年)2月26日中城湾発。 南支方面行動。
1941年(昭和16年)3月3日高雄着。
1941年(昭和16年)11月17日呉着。 弾薬、重油搭載。
1941年(昭和16年)11月21日呉発。 柱島をへて佐世保に向かう。
1941年(昭和16年)11月23日佐世保着。
1941年(昭和16年)11月26日佐世保発。
1941年(昭和16年)12月3日馬公着。 同日、馬公発。
1941年(昭和16年)12月6日パラオ着。
1941年(昭和16年)12月7日パラオ発。 サンベルナルジノ敷設部隊支援。
1941年(昭和16年)12月15日パラオ着。 弾薬、食料品搭載。
1941年(昭和16年)12月17日パラオ発。 ダバオ、ホロ攻略作戦支援。
1941年(昭和16年)12月28日パラオ着。
1941年(昭和16年)12月29日パラオ発。
1941年(昭和16年)12月31日マララグ湾着。
1942年(昭和17年)1月4日マララグ湾内で爆撃を受けたが、被害なし。
1942年(昭和17年)1月5日マララグ湾発。 同日、サマール湾着。
1942年(昭和17年)1月8日サマール湾発。 メナド攻略作戦支援。
1942年(昭和17年)1月14日ダバオ着。
1942年(昭和17年)1月22日ダバオ発。 ケンダリー攻略作戦支援。
1942年(昭和17年)1月27日ダバオ着。
1942年(昭和17年)1月29日ダバオ発。
1942年(昭和17年)1月30日バンカ泊地着。
1942年(昭和17年)1月31日バンカ泊地発。 アンボン攻略作戦支援。
1942年(昭和17年)2月5日バンカ泊地発。 マカッサル攻略作戦支援。
1942年(昭和17年)2月10日スターリング湾着。
1942年(昭和17年)2月17日スターリング湾発。 デリー、クーバン攻略作戦支援。
1942年(昭和17年)2月22日スターリング湾着。
1942年(昭和17年)2月24日スターリング湾発。 ジャワ攻略作戦支援。
1942年(昭和17年)2月27日スラバヤ沖海戦に参加。
1942年(昭和17年)3月3日ケンダリー着。
1942年(昭和17年)3月5日ケンダリー発。
1942年(昭和17年)3月6日マカッサル着。
1942年(昭和17年)3月10日北方部隊に編入される。 マカッサル発。
1942年(昭和17年)3月17日佐世保着。
1942年(昭和17年)3月21日入渠。 旗艦設備および防寒施設をおこなう。
1942年(昭和17年)4月4日出渠。
1942年(昭和17年)4月7日佐世保発。
1942年(昭和17年)4月11日厚岸着。 第五艦隊旗艦となる。
1942年(昭和17年)4月15日厚岸発。
1942年(昭和17年)4月16日室蘭着。
1942年(昭和17年)4月18日室蘭発。 アメリカ機動部隊迎撃に向かうが、発見できず。
1942年(昭和17年)4月25日横須賀着。 補給。
1942年(昭和17年)4月29日横須賀発。
1942年(昭和17年)5月3日厚岸着。
1942年(昭和17年)5月6日厚岸発。 千島東方海面行動。
1942年(昭和17年)5月10日舵を折損し、航行不能となった給油艦「尻矢」の救援に向かったが、多摩が曳航中のため単独帰投。
1942年(昭和17年)5月12日厚岸着。
1942年(昭和17年)5月13日厚岸発。
1942年(昭和17年)5月15日大湊着。
1942年(昭和17年)5月26日アリューシャン攻略作戦主隊として、大湊発。
1942年(昭和17年)6月2日幌筵着。 日彦丸より補給をうける。
1942年(昭和17年)6月3日幌筵発。 アリューシャン南方海面行動。
1942年(昭和17年)6月23日大湊着。
1942年(昭和17年)6月28日大湊発。 アリューシャン南方海面行動。
1942年(昭和17年)7月14日第五艦隊第二十一戦隊に編入。 横須賀着。
1942年(昭和17年)7月24日入渠。
1942年(昭和17年)7月30日出渠。
1942年(昭和17年)8月2日横須賀発。
1942年(昭和17年)8月6日幌筵着。
1942年(昭和17年)8月12日幌筵発。
1942年(昭和17年)8月16日大湊着。
1942年(昭和17年)8月29日大湊発。
1942年(昭和17年)9月2日幌筵着。
1942年(昭和17年)9月3日幌筵発。
1942年(昭和17年)9月18日大湊着。
1942年(昭和17年)9月30日大湊発。 敵機動部隊行動の算大のため、10月2日大湊入港。
1942年(昭和17年)10月22日大湊発。
1942年(昭和17年)10月26日幌筵発。 アッツ島方面行動。
1942年(昭和17年)11月1日片岡湾着。
1942年(昭和17年)11月2日片岡湾発。
1942年(昭和17年)11月6日大湊着。
1942年(昭和17年)11月18日大湊発。 北太平洋方面行動。
1942年(昭和17年)12月1日大湊着。 訓練に従事。
1943年(昭和18年)1月13日大湊発。
1943年(昭和18年)1月17日幌筵着。
1943年(昭和18年)1月29日幌筵発。
1943年(昭和18年)2月1日横須賀着。
1943年(昭和18年)2月3日横須賀発。
1943年(昭和18年)2月5日佐世保着。
1943年(昭和18年)2月6日佐世保工廠に入渠。 訓令工事、修理・改造工事実施。
1943年(昭和18年)2月25日出渠。
1943年(昭和18年)2月27日佐世保発。
1943年(昭和18年)3月4日幌筵着。
1943年(昭和18年)3月7日幌筵発。 輸送作戦支援。
1943年(昭和18年)3月13日幌筵着。
1943年(昭和18年)3月23日幌筵発。 輸送作戦支援。
1943年(昭和18年)3月27日アッツ島沖海戦で小破。
1943年(昭和18年)3月28日幌筵着。
1943年(昭和18年)3月31日幌筵発。
1943年(昭和18年)4月3日横須賀着。 損傷箇所の修理および電波探信儀新設工事。
1943年(昭和18年)5月11日横須賀発。
1943年(昭和18年)5月15日幌筵着。 待機。
1943年(昭和18年)7月10日幌筵発。 第一次キスカ撤収作戦に参加(不成功)。
1943年(昭和18年)7月15日幌筵着。 待機。
1943年(昭和18年)8月10日幌筵発。
1943年(昭和18年)8月13日大湊着。 整備作業。
1943年(昭和18年)9月6日大湊発。
1943年(昭和18年)9月9日幌筵着。 待機。
1943年(昭和18年)10月25日幌筵発。
1943年(昭和18年)10月27日厚岸着。 警泊。
1943年(昭和18年)11月1日厚岸発。 同日、大湊着。 整備作業。
1943年(昭和18年)11月20日大湊発。
1943年(昭和18年)11月22日佐世保着。
1943年(昭和18年)12月9日佐世保工廠に入渠。 新設、改造、修理、整備作業。
1944年(昭和19年)1月15日出渠。
1944年(昭和19年)1月22日佐世保発。
1944年(昭和19年)1月23日柱島着。
1944年(昭和19年)1月29日呉へ回航。 整備・補給。
1944年(昭和19年)2月7日徳山発。
1944年(昭和19年)2月9日大湊着。 警泊、訓練。
1944年(昭和19年)6月19日大湊発。
1944年(昭和19年)6月21日横須賀着。 整備、補給。
1944年(昭和19年)6月29日横須賀発。
1944年(昭和19年)7月1日大湊着。
1944年(昭和19年)7月31日大湊発。
1944年(昭和19年)8月2日呉着。 教育訓練。
1944年(昭和19年)10月15日呉発。 台湾沖海戦によるアメリカ軍損傷艦艇攻撃に向かったが、損傷艦艇を発見できず、反転。
1944年(昭和19年)10月17日奄美大島着。
1944年(昭和19年)10月18日奄美大島発。
1944年(昭和19年)10月20日馬公着。
1944年(昭和19年)10月21日馬公発。 比島沖海戦に参加。
1944年(昭和19年)10月23日コロン湾南部のクリオン泊地着。
1944年(昭和19年)10月24日クリオン泊地発。 スリガオ海峡に向かう。
1944年(昭和19年)10月25日退避中の「最上」と触衝し反転。
1944年(昭和19年)10月25日コロン入伯。
1944年(昭和19年)10月27日コロン発。
1944年(昭和19年)10月28日マニラ着。 レイテ輸送作戦支援。
1944年(昭和19年)10月29日マニラ湾で、アメリカ軍機の攻撃をうけ小破。
1944年(昭和19年)11月5日マニラ湾中央で、アメリカ軍機60機の集中攻撃をうけ沈没。
1945年(昭和20年)1月20日除籍。

参考資料

  1. 日本巡洋艦史.東京,海人社,1991,p72 p191,世界の艦船.No.441 1991/9増刊号 増刊第32集
  2. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 9巻 重巡那智・羽黒.東京,光人社,1997,p26-33
  3. 世界大百科事典 第2版(オンライン版)
  4. 前掲.日本巡洋艦史.p72
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p39-40
  6. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 9巻 重巡那智・羽黒.p34

謝辞

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