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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

「大淀」完成時
「大淀」完成時

「大淀」は、大淀型二等巡洋艦の1番艦である。 昭和十四年度の第四次軍備充実計画(マル四計画)で10数年ぶりに二等巡洋艦6隻の建造が認められた。 このうち4隻は巡洋艦(乙)と呼称された阿賀野型で、残る2隻が巡洋艦(丙)と呼称された大淀型である。 巡洋艦(乙)が水雷戦隊旗艦であったのに対し、巡洋艦(丙)は潜水戦隊旗艦として設計された巡洋艦であった。

日本海軍のアメリカに対する作戦計画では、水雷戦隊による雷撃戦とともに潜水艦部隊による敵主力艦隊への長距離追躡(ついじょう:後から追うこと。追跡。)が漸減作戦として予定されていた。 このような潜水艦の用法では、潜水艦単独で敵艦隊と接触するのは困難であり、索敵により敵の位置を把握し、子隊潜水艦を目標に指向することが重要であった。 このために1933年(昭和8年)から、5,500トン型巡洋艦に所要の改造を施して、潜水戦隊旗艦用巡洋艦の運用を行っていた。 この実績をもとに、昭和十四年度の第四次軍備充実計画で建造されたのが大淀型である。

主砲は単艦で機動索敵するケースを想定し、最上型から降ろした15.5cm砲を2基搭載、高角砲は秋月型駆逐艦や航空母艦「大鳳」に搭載されたもの同じ10cm連装高角砲4基が搭載された。 索敵および通信能力穂重視し、煙突後方に高速水上偵察機「紫雲」6機を収容する格納庫が設けられ、水上偵察機穂を発進させるための射出機は、全長44.5mの二式1号10型射出機1基を装備した。 なお、水雷兵器は装備されていない。

「大淀」は1943年(昭和18年)2月28日に竣工したが、当初想定したような状況は生起せず、ラバウル、カビエン、サイパンなどへの輸送作戦に従事した。

「大淀」1944年時
「大淀」1944年時

1944年(昭和19年)になると、「大淀」を連合艦隊旗艦とするという案が浮上した。 それまで連合艦隊司令長官は第一戦隊を直外して陣頭指揮をしていたが、戦線が地球の半分に及ぶ状況では困難となり、独立旗艦または陸上司令部での指揮が合理的であると考えられた。 そこで、艦隊司令部の施設があり、通信兵装も完備していて、当面使いみちのない「大淀」が注目された。 1944年(昭和19年)3月より連合艦隊旗艦としての改装工事に着手し、水上偵察機格納庫を三段に仕切り、司令部施設とした。 射出機は呉式二号五型に換装され、機銃は25mm3連装機銃12基、単装8基に改められた。 改装工事は3月31日に終了したが、この日に連合艦隊司令長官古賀峰一大将が殉職するという事件があり、実際に「大淀」が連合艦隊旗艦となったのは、後任の豊田副武大将が着任した5月4日となった。

6月のマリアナ沖海戦では、木更津沖で指揮をとったが、9月29日には連合艦隊司令部は日吉の地下壕に移った。 比島沖海戦には第三艦隊第三十一戦隊旗艦として参加した。 その後、礼号作戦(サンホセ突入作戦)、北号作戦(重要物資輸送)に参加し内地に帰投したが、1945年(昭和20年)7月28日、江田島湾飛渡瀬沖で、敵艦載機の攻撃をうけ大破転覆した。(1)(2)

艦名

艦名は河川名。 大淀川は、その源を宮崎県と鹿児島県の県境に位置する中岳(標高452m)に発し、沖水川等の支川を合わせながら、都城盆地を貫流して、中流の山間狭窄部を流れ、宮崎平野に入った後、本庄川等の支川を合わせ、宮崎市において日向灘に注ぐ、幹川流路延長107km、流域面積2,230km2の一級河川である。(3)

要目(2)(4)(5)

新造時1944年連合艦隊旗艦時
艦種二等巡洋艦
建造場所第三船台
基準排水量 ※18,164トン
公試排水量 ※29,980トン10,470トン(最終時)
垂線間長180.00m
水線長189.0m
最大幅16.60m
喫水5.95m
主機艦本式オール・ギヤードタービン4基、4軸
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)6基
出力110,000馬力
速力35.0ノット
燃料重油:2,445トン
航続力18ノットで8,700浬
乗員782人
兵装60口径三年式15.5cm3連装砲2基
65口径九八式10cm連装高角砲4基
九六式25mm連装機銃6基
60口径三年式15.5cm3連装砲2基
65口径九八式10cm連装高角砲4基
九六式25mm3連装機銃12基
九六式25mm単装機銃8基
射出機二式1号10型射出機1基呉式2号5型射出機1基
装甲水線60mm、甲板30mm
航空機水上偵察機6機水上偵察機2機
その他-最終時の機銃装備は以下
九六式25mm3連装機銃12基
九六式25mm単装機銃16基

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(6)

年月日履歴
1941年(昭和16年)2月14日起工。
1942年(昭和17年)4月2日進水。
1943年(昭和18年)2月28日竣工。 横須賀鎮守府籍に編入。 横須賀鎮守府部隊に編入。
1943年(昭和18年)3月7日横須賀へ向け徳山発。
1943年(昭和18年)3月8日横須賀着。 訓練、整備作業に従事。
1943年(昭和18年)3月16日公試および諸訓練のため出動。
1943年(昭和18年)4月1日第三艦隊付属となる。
1943年(昭和18年)4月16日内海西部へ向け、横須賀発。
1943年(昭和18年)4月17日長浜着。
1943年(昭和18年)4月18日長浜発。 柱島に回航。 訓練、整備作業。
1943年(昭和18年)5月1日機動部隊本隊となる。
1943年(昭和18年)5月20日横須賀へ向け徳山発。 「阿賀野」と同行動。
1943年(昭和18年)5月21日横須賀着。 11日のアメリカ軍アッツ島来攻により、北方作戦に備えて待機。
1943年(昭和18年)5月24日訓練のため、東京湾に出動。
1943年(昭和18年)5月25日木更津へ向け、横須賀発。 同日、木更津着。
1943年(昭和18年)5月26日訓練のため、東京湾に出動。
1943年(昭和18年)5月29日横須賀へ向け、木更津発。 同日、横須賀着。
1943年(昭和18年)5月31日柱島へ向け、横須賀発。
1943年(昭和18年)6月1日柱島着。
1943年(昭和18年)6月15日柱島発。 同日、呉着。
1943年(昭和18年)6月19日呉海軍工廠に入渠。
1943年(昭和18年)6月23日呉海軍工廠を出渠。
1943年(昭和18年)6月25日呉発。 同日、兜島沖仮泊。
1943年(昭和18年)6月26日兜島沖仮泊地発。 同日、八島錨地着。
1943年(昭和18年)6月27日八島錨地発。 同日、長浜着。
1943年(昭和18年)6月29日曳航補給訓練のため出動。
1943年(昭和18年)6月30日長浜発。 同日、徳山着。
1943年(昭和18年)7月2日佐伯基地撤収のため徳山発。 同日、徳山帰投。
1943年(昭和18年)7月3日訓練のため出動。
1943年(昭和18年)7月4日徳山発。 同日、呉着。
1943年(昭和18年)7月8日宇品へ向け呉発。 同日、宇品着。
1943年(昭和18年)7月9日陸軍人員および軍需物資搭載。 宇品発。 同日、八島着。
1943年(昭和18年)7月10日トラックへ向け八島発。 「阿賀野」と同行動。
1943年(昭和18年)7月15日トラック着。
1943年(昭和18年)7月19日ラバウルへ向け、トラック発。
1943年(昭和18年)7月21日ラバウル着。 輸送人員および軍需物資揚陸。
1943年(昭和18年)7月24日トラックへ向け、ラバウル発。
1943年(昭和18年)7月26日トラック着。 訓練警戒待機。
1943年(昭和18年)9月18日アメリカ機動部隊のギルバート方面来攻により、ギルバート方面へ向け、トラック発。
1943年(昭和18年)9月20日ブラウン着。
1943年(昭和18年)9月23日トラックへ向け、ブラウン発。
1943年(昭和18年)9月25日トラック着。
1943年(昭和18年)10月17日ブラウンへ向け、トラック発。
1943年(昭和18年)10月19日ブラウン着。
1943年(昭和18年)10月23日トラックへ向け、ブラウン発。
1943年(昭和18年)10月26日トラック着。
1943年(昭和18年)12月30日陸軍部隊輸送のため、トラック発。
1944年(昭和19年)1月1日カビエン着。 陸軍部隊揚陸。 敵機約100機の攻撃をうけ、船体に多少の損傷をうける。
1944年(昭和19年)1月1日カビエン発。
1944年(昭和19年)1月2日被雷により損傷した「清澄丸」救援に、「秋月」とともに向かう。
1944年(昭和19年)1月3日「清澄丸」と会合。 負傷者収容救難隊の来着により交代。 トラックへ向け、現場発。
1944年(昭和19年)1月4日トラック着。
1944年(昭和19年)2月10日横須賀へ向け、トラック発。
1944年(昭和19年)2月16日横須賀着。
1944年(昭和19年)2月19日サイパンへ向け、横須賀発。
1944年(昭和19年)2月22日サイパン着。
1944年(昭和19年)2月23日サイパン発。
1944年(昭和19年)2月26日横須賀着。
1944年(昭和19年)3月6日横須賀工廠で連合艦隊旗艦用としての改装工事に着手。
1944年(昭和19年)3月31日改装工事完了。
1944年(昭和19年)4月1日連合艦隊直率となる。
1944年(昭和19年)5月4日連合艦隊旗艦となる。
1944年(昭和19年)5月22日横須賀発。
1944年(昭和19年)6月23日柱島着。
1944年(昭和19年)6月28日柱島発。
1944年(昭和19年)6月29日横須賀着。
1944年(昭和19年)9月29日連合艦隊旗艦を日吉台に移す。
1944年(昭和19年)9月30日横須賀工廠に入渠。
1944年(昭和19年)10月8日横須賀工廠を出渠。 整備。
1944年(昭和19年)10月11日横須賀発。
1944年(昭和19年)10月12日柱島着。
1944年(昭和19年)10月19日第三艦隊第三十一戦隊旗艦となる。
1944年(昭和19年)10月20日豊後水道出撃。 比島沖海戦に参加。
1944年(昭和19年)10月25日エンガノ岬沖において、第三艦隊旗艦「瑞鶴」の被弾により、旗艦を本艦に移す。 この海戦で命中弾2をうけたが、戦闘航海に支障なし。
1944年(昭和19年)10月27日奄美諸島の薩川湾に入泊。
1944年(昭和19年)10月29日薩川湾発。
1944年(昭和19年)11月1日マニラへ進出。
1944年(昭和19年)11月4日マニラ発。
1944年(昭和19年)11月8日ブルネイ着。
1944年(昭和19年)11月15日第二艦隊付属へ編入。
1944年(昭和19年)11月17日ブルネイ発。
1944年(昭和19年)11月18日新南群島長島錨地着。
1944年(昭和19年)11月19日長島錨地発。
1944年(昭和19年)11月22日リンガ泊地着。
1944年(昭和19年)12月12日リンガ泊地発。
1944年(昭和19年)12月14日サンジャック着。
1944年(昭和19年)12月21日サンジャック発。
1944年(昭和19年)12月23日カムラン湾着。
1944年(昭和19年)12月24日カムラン湾発。 礼号作戦(サンホセ突入作戦)に参加。
1944年(昭和19年)12月26日サンホセに突入。 輸送船団および陸上施設を砲撃。 この作戦でB24の爆撃をうけたが、損害は軽微。
1944年(昭和19年)12月28日カムラン湾着。
1944年(昭和19年)12月29日カムラン湾発。
1944年(昭和19年)12月30日サンジャック着。
1944年(昭和19年)12月31日サンジャック発。
1945年(昭和20年)1月1日シンガポール着。 南西方面艦隊第五戦隊に編入。
1945年(昭和20年)2月10日シンガポール発。 北号作戦(重要物資輸送)に参加。
1945年(昭和20年)2月20日呉着。
1945年(昭和20年)3月19日呉付近において、敵艦載機の攻撃をうけ中破。
1945年(昭和20年)7月24日江田島湾飛渡瀬沖で停泊中、敵艦載機の攻撃をうけ損傷。
1945年(昭和20年)7月28日江田島湾飛渡瀬沖で、敵艦載機の攻撃をうけ、直撃弾11以上をうけ大破転覆。
1945年(昭和20年)11月20日除籍。

参考資料

  1. 日本巡洋艦史.東京,海人社,1991,p128 p196,世界の艦船.No.441 1991/9増刊号 増刊第32集
  2. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 15巻 軽巡川内型・阿賀野型・大淀・香取型.東京,光人社,1997,p141-145
  3. 日本の川 - 九州 - 大淀川 - 国土交通省水管理・国土保全局.https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0908_ooyodo/0908_ooyodo_00.html.2021年2月12日確認
  4. 前掲.日本巡洋艦史.p128
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p40-42
  6. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 15巻 軽巡川内型・阿賀野型・大淀・香取型.p188

謝辞

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