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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

赤城

「赤城」は当初、1920年(大正9年)に成立した八八艦隊計画(戦艦8隻・巡洋戦艦8隻の整備計画)の天城型巡洋戦艦2番艦として計画されたものである。 天城型は、常備排水量41,180トン、速力30.0ノット、主砲41cm連装砲5基、副砲14cm単装砲16基および相応の装甲を備えた有力艦であった。 1番艦「天城」は1920年(大正9年)12月16日、横須賀海軍工廠で起工。 2番艦「赤城」は1920年(大正9年)12月6日、呉海軍工廠で起工されたが、1922年(大正11年)に締結されたワシントン海軍軍縮条約により建造中止となった。

ワシントン海軍軍縮条約には、航空母艦の規定も含まれており、日本の保有量は81,000トンとされた。 個艦の排水量は27,000トン、ただし2艦に限り33,000トンまで可能とされていた。 また、搭載砲は8インチ以下、6インチ以上の砲を合計10門まで、ただし33,000トンの場合は8門以下とされた。 この規定に従って「天城」および「赤城」の航空母艦への改装が決定し、「天城」は1923年(大正12年)1月18日に、「赤城」は1923年(大正12年)11月9日に改装工事に着手した。 だが同年9月1日の関東大震災により「天城」は大破、修理不能と判定され廃艦となった。 「天城」の代艦として加賀型戦艦1番艦「加賀」が空母に改造されることとなった。

飛行甲板はイギリス航空母艦「フューリアス(Furious)」を参考に発着艦の効率化を意図して三段式とした。 上部飛行甲板(発着甲板)は長さ190.2mで発着両用に使用できたが、中部飛行甲板(砲塔甲板)は小型機、下部飛行甲板(発甲板)は大型機の発進専用であった。 羅針盤艦橋は上部飛行甲板下に設置されており、上部飛行甲板には艦橋や煙突の出ていない平甲板(フラッシュ・デッキ)型航空母艦であった。

煙突は、大小2本の煙突を右舷側に設け、前部のものを重油専焼缶11基分の大型煙突とし、斜め下方に屈曲させ、この煙突内に海水噴射装置を設け、これにより排煙を冷却して上昇を防止し、搭載機の着艦が妨害されることを防止するものとした。 後部の煙突は。重油・石炭混焼缶8基分の小型煙突で、上方に向けて開口していた。 これは、巡航時に使用するもので、着艦には使用されず、したがって海水噴射装置は設けられなかった。 なお、同時期に戦艦から改装された「加賀」は、イギリス航空母艦「フューリアス(Furious)」、「アーガス(Argus)」に倣い、煙路を両舷に沿って艦尾まで導き排煙するという方式をとっていたが、この煙路は容積および重量が極めて大きく、煙路に隣接する居住区が著しく高温となり、また艦尾からの排煙が気流を乱して搭載機の着艦が妨害される事態となった。 のちに「加賀」は「赤城」と類似の下向き煙突方式に改造さ搭載砲は、20cm砲10門、12cm高角砲12門で、20cm砲は三段甲板の中段に連装砲2基、後部両舷に単装砲を3基ずつ装備した。 高角砲は中部飛行甲板高さの両舷に連装砲を3基ずつ装備した。 搭載機数は、三式艦上戦闘機16機(常用12機、補用4機)、十三式艦上攻撃機28機(常用24機、補用4機)、一〇式艦上偵察機16機(常用12機、補用4機)の計60機で、艦のサイズに比べて多いものではなかった。

赤城
赤城―1938年時

「赤城」は1927年(昭和2年)に就役したが、その後の航空機の発達に対応困難となって飛行甲板の延長が必要となった。 先に改装を行っていた加賀を参考に1935年(昭和10年)11月から佐世保海軍工廠で飛行甲板の一段化と延長、島型艦橋への改装等に着手した。 飛行甲板は一段となり、長さ249.2m、幅30.5mとなり、格納庫も拡大され、搭載機数は九六式艦上戦闘機16機(常用12機、補用4機)、九六式艦上攻撃機51機(常用35機、補用16機)、九六式艦上爆撃機24機(常用19機、補用5機)の計91機となった。 島型艦橋は、「加賀」の右舷前部に対し、「赤城」では左舷中部に設置された。 これは前部寄りでは航空機の発艦作業上具合が悪く、着艦上からも無障害区域が広いほうがよいとの意見があり、飛行甲板中央部に艦橋を配置することとしたが、右舷側中央部には煙突があるため、左舷側設置となった。 ところが実際に運用してみると、排煙が艦橋に流れ込む、後部気流が乱れて着艦しづらくなる等の問題が生じ、以降の航空母艦では「飛龍」以外に採用例は無かった。 缶はすべて重油専焼になり、第一煙突と第二煙突は一つにまとめられ、斜め下方に屈曲させた単煙突となった。 三段甲板の中段に設置されていた、20cm砲連装砲2基は撤去され、後部両舷の単装砲3基は残置された。 高角砲は、予算の関係で12cm連装砲3基12門と変わらなかったが、25mm連装機銃14基が増備された。

開戦初頭、「赤城」は第一航空艦隊旗艦としてハワイ作戦に参加した。 その後は、ラバウル攻撃、ポートダーウィン空襲、チラチャップ攻撃と南太平洋を転戦した。 1942年(昭和17年)4月のインド洋作戦では、他の空母とともにイギリス重巡洋艦「コーンウォール (Cornwall) 」、「ドーセットシャー (Dorsetshire)」、航空母艦「ハーミーズ (Hermes)」を撃沈した。 6月5日のミッドウェー海戦で、アメリカ航空母艦「エンタープライズ(Enterprise)」機の爆撃により、被弾大破し、翌6日に第四駆逐隊(嵐、野分、萩風、舞風)の雷撃により、自沈処分された。(1)

艦名

艦名は山岳名。 赤城山は群馬県東部にある成層火山である。 山頂近くは複数の峰に分かれていて、最高部は標高1828m。 榛名山,妙義山とともに上毛三山と呼ばれる。(2)

「むさし野をわれ行き居れば上つ毛や赤城の山に雪ふれる見ゆ」(正岡子規)

要目(3)(4)(5)(6)

巡洋戦艦として計画時竣工時最終時
艦種巡洋戦艦航空母艦
建造場所造船船渠
基準排水量 ※1-26,900トン36,500トン
常備排水量 ※141,180トン--
公試排水量 ※241,217トン34,364トン41,300トン
全長252.37m
垂線間長234.70m
水線長249.94m248.95m250.36m
最大幅32.26m
水線最大幅30.78m28.96m31.32m
水線下最大幅31.36m31.10m
喫水9.45m8.08m8.17m
飛行甲板-上部飛行甲板:長さ190.2m×幅30.5m
下部飛行甲板:長さ55.2m×幅22.9m
長さ249.2m×幅30.5m
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)11基
ロ号艦本式水管缶(重油・石炭混焼)8基
ロ号艦本式水管缶(重油専焼)11基
ロ号艦本式水管缶(重油・石炭混焼)8基
ロ号艦本式水管缶(重油専焼)19基
主機技本式オール・ギヤードタービン8基、4軸技本式オール・ギヤードタービン8基、4軸艦本式オール・ギヤードタービン8基、4軸
出力131,200馬力131,200馬力131,200馬力
速力30.0ノット31.0ノット31.2ノット
燃料石炭:2,500トン、重油:3,900トン石炭:2,100トン、重油:3,900トン重油:5,770トン
航続力14ノットで8,000浬14ノットで8,000浬16ノットで8,200浬
兵装45口径三年式41cm連装砲5基
50口径三年式14cm単装砲16基
45口径十年式12cm単装高角砲4基
50口径三年式20cm連装砲2基
50口径三年式20cm単装砲6基
45口径十年式12cm連装高角砲6基
50口径三年式20cm単装砲6基
45口径十年式12cm連装高角砲6基
九六式25mm連装機銃14基
装甲水線254mm
甲板95mm
砲塔前楯305mm
砲塔天蓋127mm
司令塔330mm
舷側127mm
航空機一〇式艦上戦闘機1機三式艦上戦闘機16機(常用12機、補用4機)
十三式艦上攻撃機28機(常用24機、補用4機)
一〇式艦上偵察機16機(常用12機、補用4機)
九六式艦上戦闘機16機(常用12機、補用4機)
九六式艦上攻撃機51機(常用35機、補用16機)
九六式艦上爆撃機24機(常用19機、補用5機)
零艦上戦闘機21機(常用18機、補用3機)
九七式艦上攻撃機30機(常用27機、補用3機)
九九式艦上爆撃機21機(常用18機、補用3機)
乗員1,297人2,000人
その他---

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(7)

年月日履歴
1920年(大正9年)12月6日巡洋戦艦として呉海軍工廠で起工。
1923年(大正12年)11月9日航空母艦への改装工事開始。
1923年(大正12年)11月19日航空母艦に類別。
1925年(大正14年)4月22日進水。
1927年(昭和2年)3月25日竣工。 横須賀鎮守府籍に編入。
1927年(昭和2年)8月1日連合艦隊付属となり、大演習に参加。
1927年(昭和2年)11月1日第一予備艦となる。
1928年(昭和3年)4月1日第一航空戦隊に編入。
1928年(昭和3年)12月10日第一予備艦となる。
1929年(昭和4年)4月1日第一航空戦隊に編入。
1929年(昭和4年)4月22日済州島で訓練中、悪天候により多数の航空機が洋上に不時着する事故が発生。
1929年(昭和4年)4月22日佐世保に帰投。
1929年(昭和4年)11月30日第一予備艦となる。
1930年(昭和5年)12月1日連合艦隊第一航空戦隊に編入。
1931年(昭和6年)12月1日第二予備艦となり横須賀工廠で、一部改装工事に着手。
1932年(昭和7年)12月1日第一予備艦となる。
1933年(昭和8年)4月25日第二航空戦隊に編入。 特別大演習に参加。
1933年(昭和8年)10月20日第一艦隊第一航空戦隊に編入。
1934年(昭和9年)11月15日第二艦隊第二航空戦隊に編入。
1935年(昭和10年)11月15日第三予備艦となり佐世保工廠で、第二次改装工事に着手。 飛行甲板の一段化と延長、島型艦橋への改装等を実施。
1938年(昭和13年)8月31日改装工事完了。
1938年(昭和13年)12月15日第一艦隊第一航空戦隊に編入。
1939年(昭和14年)1月30日佐世保発。 2月19日まで南支方面に行動。
1939年(昭和14年)3月22日有明湾発。 4月2日まで中支方面に行動。
1940年(昭和15年)3月26日有明湾発。 4月3日まで南支方面に行動。
1940年(昭和15年)9月5日横須賀発。 南洋方面に行動。
1940年(昭和15年)9月15日呉に帰投。
1940年(昭和15年)11月15日特別役務艦となり、艦体、兵器を整備。
1941年(昭和16年)4月10日第一航空艦隊第一航空戦隊に編入。 第一航空艦隊旗艦となる。
1941年(昭和16年)11月18日佐伯発。
1941年(昭和16年)11月22日単冠湾着。
1941年(昭和16年)11月26日単冠湾発。
1941年(昭和16年)12月8日ハワイ作戦に参加。 第一波攻撃隊に九七式艦上攻撃機27機(爆装15機、雷装12機)、零式艦上戦闘機9機が参加。 艦戦1機が未帰還となる。 第二波攻撃隊には九九式艦上爆撃機18機、零式艦上戦闘機9機が参加。 艦爆4機が帰還となる。
1941年(昭和16年)12月24日内海西部着。
1942年(昭和17年)1月8日内海西部発。
1942年(昭和17年)1月14日トラック着。
1942年(昭和17年)1月17日トラック発。
1942年(昭和17年)1月20日ラバウル攻撃。
1942年(昭和17年)1月21日カビエン攻撃。
1942年(昭和17年)1月22日ラバウル攻撃。
1942年(昭和17年)1月27日トラック着。
1942年(昭和17年)2月1日トラック発。
1942年(昭和17年)2月8日パラオ着。
1942年(昭和17年)2月9日パラオ発。 ポートダーウィン攻撃に向かう。
1942年(昭和17年)2月15日ポートダーウィン攻撃。
1942年(昭和17年)2月21日スターリング湾着。
1942年(昭和17年)2月25日スターリング湾発。 ジャワ南方に向かう。
1942年(昭和17年)3月5日ジャワ島チラチャップの在泊艦船攻撃。
1942年(昭和17年)3月11日スターリング湾着。
1942年(昭和17年)3月26日スターリング湾発。 セイロン島に向かう。
1942年(昭和17年)4月5日コロンボ在泊艦船攻撃。 他の空母とともにイギリス巡洋艦「コーンウォール (Cornwall) 」、「ドーセットシャー (Dorsetshire)」を撃沈。
1942年(昭和17年)4月9日トリンコマリー在泊艦船攻撃。 他の空母とともに航空母艦「ハーミーズ (Hermes)」、オーストラリア駆逐艦「ヴァンパイア(Vampire)」を撃沈。
1942年(昭和17年)4月22日横須賀着。
1942年(昭和17年)5月17日横須賀発。
1942年(昭和17年)5月18日柱島着。
1942年(昭和17年)5月27日柱島発。
1942年(昭和17年)6月5日ミッドウェー作戦に参加。 アメリカ航空母艦「エンタープライズ(Enterprise)」機の爆撃により、被弾大破。
1942年(昭和17年)6月6日第四駆逐隊(嵐、野分、萩風、舞風)の雷撃により、自沈処分。
1942年(昭和17年)9月25日除籍。

参考資料

  1. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 5巻 空母赤城・加賀・鳳翔・竜驤.東京,光人社,1996,p91-97
  2. 世界大百科事典 第2版(オンライン版)
  3. 日本航空母艦史.東京,海人社,1994,p16,世界の艦船.No481 1994/5増刊号 増刊第40集
  4. 軍艦メカ2日本の空母.東京,光人社,1986,p62-67,丸10月増刊号
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p43-44
  6. 石橋孝夫.日本帝国海軍全艦船1868-1945 [ 戦艦・巡洋戦艦 ].東京,並木書房,2007,p354-355
  7. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 5巻 空母赤城・加賀・鳳翔・竜驤.p100

謝辞

アイコンはkiyochan様の「アイコン&お絵描き工房」より、ご提供頂いた。