「千代田」は水上機母艦として建造され、甲標的母艦をへて航空母艦へ改造された。
千歳型水上機母艦
「千代田」は千歳型水上機母艦の2番艦である。 千歳型は昭和九年度の第二次海軍軍備補充計画(マル二計画)で建造された初の新造水上機母艦である。 本艦は第1状態(平時状態)を水上機母艦兼給油艦、第2状態(戦時状態)では甲標的母艦とし、必要の際には航空母艦へ改造可能という複雑な意図の下に建造された。
船体は水平甲板型で後半部の下甲板に甲標的12隻を4列に搭載できる格納庫を設けた。 中央部には飛行甲板の一部として、4脚で支持された40m弱の甲板を設け、機銃甲板と称した。 当初は100mの長さを要求されたが、復元性能維持のため短縮された。 この下の上甲板部に甲標的搭載用の大型ハッチ、4脚部に揚収用クレーンがある。 この機銃甲板の高さは甲標的を積み込む都合から決定されたもので、航空母艦に改装されたときの飛行甲板は、これより低くなっていた。
搭載機は九五式水上偵察機28機(常用24機、補用4機)の計画であった。 軍縮条約の制約上2基とする予定の射出機は、建造中に条約を脱退したために、元計画通り4基搭載している。 対空兵装は、12.7cm連装高角砲2基を前甲板に搭載、25mm連装機銃6基搭載した。 この他に、給油艦として他艦補給用の重油2,750tを搭載可能であった。
主機関は当初、軍縮条約下でディーゼル主機2基、2軸で20ノットの計画であったが、建造中に条約を脱退したために、蒸気タービンを増載して、29ノットの艦として完成した。 主機には艦本式11号]型内火機械2基と艦本式オール・ギヤードタービン2基を搭載し、各1基をフルカン・ギアで1軸に結合した。 低速では燃費に優れたディーゼル機関を使い、高速時にはディーゼル機関の出力に蒸気タービンの出力を加えるもので、合計56,800馬力を発揮、速力29ノットを得た。
1938年(昭和13年)7月25日に竣工した「千代田」は海南島攻略作戦、仙頭攻略作戦、南寧攻略作戦、揚子江遡行作戦等に参加した。 「千代田」は1940年(昭和15年)から1942年(昭和16年)にかけて、呉工廠で第2状態である甲標的母艦に改装された。 甲標的12隻を搭載した代わりに、搭載機は12機(常用)、射出機を2基とし、重油給油能力は1,000tとなった。
開戦後は、ミッドウェー作戦に参加、トラック、キスカ、ソロモン方面への甲標的輸送任務に従事した。 (1)(2)
千歳型航空母艦
1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦における4空母の喪失を受け、6月30日に航空母艦に改装決定となり、1943年(昭和18年)1月16日から横須賀工廠で航空母艦改造に着手、12月26日に竣工した。
飛行甲板は長さ180、幅23.0m、甲標的格納甲板を下部格納庫として格納庫は2段となっている。 搭載機数は艦上戦闘機21機(常用)、艦上攻撃機9機(常用)の計30機であった。 対空兵装は、12.7cm連装高角砲4基、25mm3連装機銃10基を装備した。 主機関は水上機母艦時と変化無く、水線部にはバルジを装着した。 航空母艦としては、正規空母に比べて搭載機が少なく、性能的にも地味であるが、1年程度で改装を完了し、比較的短時間で戦力になった意義は大きい。
就役後の「千代田」は、南方戦線への輸送に従事したのち、マリアナ海戦に参加、1942年(昭和19年)10月25日の比島沖海戦でアメリカ空母機の爆撃を受け行動不能となった後、アメリカ水上部隊の砲撃によりルソン海峡の東250浬の地点で沈没した。(3)(4)(5)
艦名は旧跡名。 江戸城の別称。 日清、日露戦争時の武勲艦である三等巡洋艦の艦名を襲用している。 「千代田」はイギリスのトムソン社で1891年(明治24年)に竣工した。 12cm単装速射砲10基、舷側に92mmの装甲を施し、速力 19.0ノットを発揮した。 日清戦争では、舷側装甲帯をもつことと19.0ノットの優速を考慮して、三景艦とともに主力部隊として行動した。 日露戦争に際しては、旧式艦で構成された第三艦隊第六戦隊に属し、仁川沖海戦、旅順攻略作戦、日本海海戦、樺太作戦等に参加した。 (6)
竣工時 | 甲標的母艦改装時 | 航空母艦改装時 | |
---|---|---|---|
艦種 | 水上機母艦 | 水上機母艦(甲標的母艦) | 航空母艦 |
建造場所 | 第三船台 | ||
基準排水量 ※1 | 11,023トン | → | 11,190トン |
常備排水量 ※2 | 12,550トン | - | |
公試排水量 ※2 | - | 12,350トン | 13,600トン |
垂線間長 | 174.0m | → | → |
水線長 | 183.0m | 183.8m | 185.93m |
最大幅 | 18.80m | → | 20.8m |
喫水 | 7.21m | 7.14m | 7.51m |
飛行甲板 | - | - | 長さ180×幅23.0m |
主缶 | ロ号艦本式水管缶(重油専焼)4基 | → | → |
主機 | 艦本式オール・ギヤードタービン2基 艦本式11号]型ディーゼル機関2基、2軸 | → | → |
出力 | 56,800馬力 | → | → |
速力 | 29ノット | → | → |
燃料 | 重油:1,600トン | → | 重油:2,687トン |
航続力 | 16ノットで8,000浬 | → | 18ノットで11,810浬 |
兵装 | 40口径八九式12.7cm連装高角砲4基 九六式25mm連装機銃6基 | 40口径八九式12.7cm連装高角砲4基 九六式25mm連装機銃6基 甲標的12隻 | 40口径八九式12.7cm連装高角砲4基 九六式25mm3連装機銃10基 |
射出機 | 呉式2号5型射出機4基 | 呉式2号5型射出機2基 | - |
航空機 | 水上偵察機28機(常用24機、補用4機) | 水上偵察機12機(全機常用機) | 艦上戦闘機21機 艦上攻撃機9機 (全機常用機) |
搭載能力 | 補給用重油2,750トン | 補給用重油1,000トン | - |
乗員 | ? | ? | 785人 |
その他 | - | - | - |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
---|---|
1936年(昭和11年)12月14日 | 起工。 |
1937年(昭和12年)11月19日 | 進水。 |
1938年(昭和13年)12月15日 | 竣工。 呉鎮守府籍に編入。 呉鎮守府付属に編入。 警備兼練習艦となる。 |
1939年(昭和14年)1月16日 | 連合艦隊付属に編入。 |
1939年(昭和14年)1月30日 | 呉発。 海南島攻略作戦支援。 |
1939年(昭和14年)2月3日 | 萬山泊地着。 以後、攻略作戦を支援。 |
1939年(昭和14年)2月26日 | 呉着。 整備休養。 |
1939年(昭和14年)3月22日 | 鹿児島発。 北支方面行動。 |
1939年(昭和14年)4月2日 | 寺島水道着。 |
1939年(昭和14年)5月25日 | 第五艦隊第九戦隊に編入。 |
1939年(昭和14年)5月27日 | 呉発。 南支方面航空作戦のため、広東付近に向かう。 |
1939年(昭和14年)6月16日 | 馬公着。 待機。 |
1939年(昭和14年)6月17日 | 馬公発。 |
1939年(昭和14年)6月21日 | 汕頭沖着。 攻略作戦支援。 |
1939年(昭和14年)7月8日 | 高雄着。 待機。 |
1939年(昭和14年)7月11日 | 高雄発。 南支方面を行動。 |
1939年(昭和14年)8月25日 | 馬公着。 待機。 |
1939年(昭和14年)8月31日 | 馬公発。 南支方面を行動。 |
1939年(昭和14年)9月27日 | 基隆着。 のち馬公に回航。 |
1939年(昭和14年)10月1日 | 馬公発。 南支方面を行動。 |
1939年(昭和14年)11月13日 | 三亜発。 南寧方面攻略作戦の支援に向かう。 |
1939年(昭和14年)11月15日 | 第九戦隊は解隊。 第二遣支艦隊に編入。 |
1939年(昭和14年)12月11日 | 呉着。 整備休養。 |
1939年(昭和14年)12月25日 | 呉発。 南支方面に向かう。 |
1940年(昭和15年)2月11日 | 基隆着。 待機。 |
1940年(昭和15年)2月14日 | 基隆発。 南支方面を行動。 |
1940年(昭和15年)5月9日 | 下関着。 のち?に回航。 |
1940年(昭和15年)5月10日 | 呉鎮守府付属に編入。 特別役務艦となる。 |
1940年(昭和15年)5月23日〜6月23日 | 呉工廠に入渠。 甲標的搭載艦に改造。 |
1940年(昭和15年)9月7日〜18日 | 呉工廠に入渠。 |
1940年(昭和15年)9月20日 | 第四艦隊付属に編入。 予備艦となる。 |
1940年(昭和15年)11月15日 | 連合艦隊付属に編入。 |
1941年(昭和16年)1月10日 | 改装工事を終え、倉橋島大迫付近で、甲標的の投下訓練に入る。 |
1941年(昭和16年)3月12日〜20日 | 愛媛県三机湾基地で、甲標的の訓練実験にあたる。 |
1941年(昭和16年)5月15日〜31日 | 呉工廠に入渠。 |
1941年(昭和16年)6月28日7月3日 | 呉工廠に入渠。 |
1941年(昭和16年)7月21日 | 伊予灘で甲標的との訓練にあたる。 |
1941年(昭和16年)8月18日 | 甲標的による襲撃訓練にあたる。 |
1941年(昭和16年)8月20日 | 甲標的の後期訓練を終わる。 |
1941年(昭和16年)11月18日 | 甲標的5隻を潜水艦に移し、以後、内海西部で真珠湾在泊の敵艦船攻撃を訓練。 |
1941年(昭和16年)12月8日〜13日 | 呉工廠に入渠。 |
1941年(昭和16年)12月23日 | 呉発。 内海西部で行動。 |
1941年(昭和16年)12月27日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)1月6日 | 呉発。 内海西部で行動。 |
1942年(昭和17年)2月3日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)2月8日 | 呉発。 内海西部で行動。 |
1942年(昭和17年)2月20日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)2月25日 | 呉発。 内海西部で行動。 |
1942年(昭和17年)3月17日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)3月21日 | 呉発。 内海西部で行動。 |
1942年(昭和17年)3月27日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)4月2日 | 呉発。 内海西部で行動。 |
1942年(昭和17年)4月8日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)4月10日 | 呉発。 内海西部で行動。 |
1942年(昭和17年)4月12日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)4月12日〜14日 | 呉発。 安芸灘で待機。 甲標的の搭載にあたる。 |
1942年(昭和17年)4月16日 | 内海西部発。 |
1942年(昭和17年)4月24日 | トラック着。 待機。 |
1942年(昭和17年)5月20日 | トラック発。 |
1942年(昭和17年)5月24日 | 呉着。 補給、出撃準備。 |
1942年(昭和17年)5月29日 | 内海西部発。 ミッドウェー北西方に向かう。 |
1942年(昭和17年)6月4日 | ミッドウェー北西方1,000浬に付近に進出、進航。 |
1942年(昭和17年)6月5日 | ミッドウェー海戦により、反転北上。 |
1942年(昭和17年)6月6日 | 第一機動部隊と合同して、北西方に退避。 |
1942年(昭和17年)6月7日 | 損傷退避中の「最上」救援のため南下。 |
1942年(昭和17年)6月8日 | 「最上」を収容、西に転針退避。 |
1942年(昭和17年)6月14日 | 呉着。 待機。 |
1942年(昭和17年)6月25日 | 呉発。 |
1942年(昭和17年)6月26日 | 横須賀着。 |
1942年(昭和17年)6月28日 | 横須賀発。 キスカ島に向かう。 |
1942年(昭和17年)7月5日 | キスカ着。 水偵、物件揚陸。 |
1942年(昭和17年)7月12日 | キスカ発。 |
1942年(昭和17年)7月19日 | 呉着。 補給待機。 |
1942年(昭和17年)8月6日 | 呉発。 行動先不詳。 |
1942年(昭和17年)8月22日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)8月27日 | 呉発。 行動先不詳。 |
1942年(昭和17年)9月12日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)9月24日 | 呉発。 甲標的6基を搭載。 広島湾で待機。 |
1942年(昭和17年)9月25日 | 広島湾発。 |
1942年(昭和17年)10月30日 | トラック着。 待機。 |
1942年(昭和17年)10月6日 | トラック発 |
1942年(昭和17年)10月8日 | ショートランド着。 |
1942年(昭和17年)10月15日 | 甲標的によるツラギ方面の敵艦船攻撃のため増援部隊主隊に続航していたが、中止となり、ショートランドに帰投。 |
1942年(昭和17年)11月2日 | 伊号第十六、伊号第二十四潜水艦に甲標的を移載。 |
1942年(昭和17年)11月3日 | 伊号第二十潜水艦に甲標的を移載。 |
1942年(昭和17年)11月4日 | ショートランド発。 |
1942年(昭和17年)11月6日 | トラック着。 待機。 |
1942年(昭和17年)11月8日 | 伊号第二十四潜水艦に搭載した甲標的の故障修理にあたる。 |
1942年(昭和17年)11月12日 | 伊号第二十潜水艦に甲標的を移載。 |
1942年(昭和17年)11月19日 | 伊号第十六潜水艦に甲標的を移載。 |
1942年(昭和17年)11月28日 | 伊号第二十四潜水艦に甲標的を移載。 |
1942年(昭和17年)12月4日 | 伊号第十六潜水艦に甲標的を移載。 |
1942年(昭和17年)12月23日 | トラック発。 |
1942年(昭和17年)12月28日 | 呉着。 待機。 横須賀鎮守府付属に編入。 |
1943年(昭和18年)1月6日 | 呉発。 |
1943年(昭和18年)1月8日 | 横須賀着。 |
1943年(昭和18年)1月16日 | 横須賀工廠で航空母艦への改装工事着手。 |
1943年(昭和18年)2月1日 | 第四予備艦となる。 |
1943年(昭和18年)12月15日 | 航空母艦に類別。 |
1943年(昭和18年)12月21日 | 連合艦隊北東方面艦体第十二航空艦隊第五十一航空戦隊に編入。 |
1943年(昭和18年)12月26日 | 航空母艦への改装工事完了。 |
1944年(昭和19年)1月10日 | 横須賀発。 東京湾で訓練。 |
1944年(昭和19年)1月11日 | 横須賀着。 |
1944年(昭和19年)1月13日 | 横須賀発。 東京湾で訓練。 |
1944年(昭和19年)1月14日 | 横須賀着。 |
1944年(昭和19年)1月29日 | 横須賀発。 飛行機輸送のためトラックへ向かう。 |
1944年(昭和19年)2月1日 | 連合艦隊第三艦隊第三航空戦隊に編入。 |
1944年(昭和19年)2月3日 | トラック着。 輸送機材、人員揚陸。 |
1944年(昭和19年)2月10日 | トラック発。 |
1944年(昭和19年)2月16日 | 呉着。 |
1944年(昭和19年)2月22日 | 呉発。 |
1944年(昭和19年)2月23日 | 徳山発。 三津浜着。 第二六三航空基地員625名と被服、食料など搭載。 |
1944年(昭和19年)2月25日 | 三津浜発。 |
1944年(昭和19年)2月26日 | 横須賀着。 |
1944年(昭和19年)3月1日 | 第三艦隊は連合艦隊第一機動艦隊に編入。 |
1944年(昭和19年)3月1日 | 横須賀発。 |
1944年(昭和19年)3月5日 | サイパン着。 輸送人員、物件揚陸。 |
1944年(昭和19年)3月6日 | グアム着。 輸送人員、物件揚陸。 サイパンに回航。 |
1944年(昭和19年)3月10日 | サイパン発。 第二〇一航空隊輸送。 |
1944年(昭和19年)3月12日 | パラオ着。 輸送物件、人員揚陸。 |
1944年(昭和19年)3月15日 | パラオ発。 |
1944年(昭和19年)3月19日 | バリクパパン着。 燃料搭載。 |
1944年(昭和19年)3月21日 | バリクパパン発。 |
1944年(昭和19年)3月24日 | パラオ着。 燃料補給。 |
1944年(昭和19年)3月27日 | パラオ発。 |
1944年(昭和19年)3月30日 | バリクパパン着。 燃料搭載。 |
1944年(昭和19年)4月1日 | バリクパパン発。 |
1944年(昭和19年)4月3日 | ダバオ着。 |
1944年(昭和19年)4月5日 | ダバオ発。 |
1944年(昭和19年)4月10日 | 呉着。 補給整備。 |
1944年(昭和19年)4月15日 | 呉発。 内海西部で訓練待機。 |
1944年(昭和19年)4月22日 | 呉着。 |
1944年(昭和19年)5月3日 | あ号作戦計画発令。 |
1944年(昭和19年)5月4日 | 呉発。 三津浜から八島錨地を行動。 |
1944年(昭和19年)5月6日 | 三津浜着。 |
1944年(昭和19年)5月10日 | 佐伯発。 12日中城湾をへて、タウイタウイ泊地に向かう。 |
1944年(昭和19年)5月16日 | タウイタウイ泊地着。 訓練待機。 |
1944年(昭和19年)5月22日 | 訓練のため出動したが、「千歳」が雷撃を受けたため、訓練中止。 |
1944年(昭和19年)6月13日 | あ号作戦決戦用意発令。 タウイタウイ泊地発。 |
1944年(昭和19年)6月14日 | ギマラス泊地着。 |
1944年(昭和19年)6月15日 | あ号作戦決戦発動。 ギマラス泊地発。 夕刻、サンベルナルジノ海峡通過。 |
1944年(昭和19年)6月17日 | E点(北緯12度、東経131度)で補給。 |
1944年(昭和19年)6月20日 | 後部に爆弾1発をうけ損傷。 |
1944年(昭和19年)6月22日 | 中城湾着。 |
1944年(昭和19年)6月23日 | 中城湾発。 |
1944年(昭和19年)6月24日 | 柱島着。 |
1944年(昭和19年)7月1日 | 呉着。 呉工廠に入渠、修理。 |
1944年(昭和19年)8月3日 | 呉発。 内海西部で訓練待機。 |
1944年(昭和19年)9月10日 | 呉着。 補給休養。 |
1944年(昭和19年)10月17日 | 捷一号作戦警戒発令。 |
1944年(昭和19年)10月19日 | 呉発、大分付近に向かう。 |
1944年(昭和19年)10月20日 | 飛行機隊を収容。 佐多岬沖に部隊終結後、豊後水道を南下。 ルソン海峡東方に向かう。 |
1944年(昭和19年)10月25日 | エンガノ岬沖でアメリカ空母機の爆撃を受け行動不能となった後、アメリカ水上部隊の砲撃によりルソン海峡の東250浬の地点で沈没。 |
1944年(昭和19年)12月20日 | 除籍。 |
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