同型艦「雲龍」
「葛城」は雲龍型航空母艦の3番艦である。 雲龍型は戦時計画で建造された中型航空母艦である。 昭和十六年度の第四次海軍軍備充実計画(マル五計画)において、大鳳改型の大型航空母艦2隻と飛龍型の中型航空母艦(新型)1隻の建造を計画した。しかし、マル五計画の決定をまえに、開戦決定とともに戦時艦船建造計画(マル急計画)を策定した。 この中に中型航空母艦1隻の建造が含まれており、これがのちの「雲龍」である。 マル急計画は開戦を控えた緊急計画であるため、早急な完成が望まれたため、既存の「飛龍」に改正を加えて雲龍型航空母艦が設計された。 1番艦「雲龍」の起工がミッドウェー海戦後となったため、戦訓対策が盛り込まれ、「飛龍」とはかなりの相違がみられる。 さらにミッドウェー海戦後に策定された改マル五計画では、雲龍型航空母艦15席の建造が決定されたが、実際に起工されたのは「天城」、「葛城」、「笠置」、「阿蘇」、「生駒」の5隻だけで、竣工したのは「天城」、「葛城」の2隻にとどまった。 雲龍型とされる3隻は、、戦訓対策や機関製造能力により、兵装、性能、艤装等に差異がある。
飛行甲板は、飛行甲板は長さ216.9m、幅27mで「飛龍」と同様だが、昇降機は3基から2基に減少している。 ただし、新型機に合わせて寸法を拡大している。 格納庫は上下2段で、搭載機数は十七試艦上戦闘機(烈風)20機(常用機18機、補用機2機)、十七試艦上偵察機(彩雲)6機(常用)、十六試艦上攻撃機(流星)27機(常用)の計53機であった。 対空兵装は、高角砲が12.7cm連装高角砲6基で「飛龍」と同じだが、「葛城」では25mm機銃を連装21基、30基に強化している。 また12cm30連装噴進砲6基を艦首飛行甲板両舷に装備した。 「葛城」では機関の製造が間に合わず、陽炎型駆逐艦の機関2組を搭載している。 このため、出力が104,000馬力に低下したため、速力が32ノットに低下した。 また、工事簡易化により一部の機銃座、指揮装置類のブルワーク形状が角形となっている。
1944年(昭和19年)10月15日に竣工した「葛城」は第三艦隊第一航空戦隊に編入されたが、搭載すべき航空機も無く、内海西部で待機状態となった。 1945年(昭和20年)3月と7月に呉付近でアメリカ艦載機と交戦し命中弾を受けるが、航行可能状態で終戦を迎えた。 戦後は、復員輸送艦となり、南方からの復員輸送に従事。 1946年(昭和21年)12月22日〜1947年(昭和22年)11月30日に日立造船桜島(大阪)で解体された。(1)
艦名は山岳名。 葛城山は奈良県と大阪府の境をなす金剛山地の一峰で標高960m。(2)
「桜花咲きぬるときは葛城の山のすがたにかかる白雲」(藤原家隆)
竣工時 | |
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艦種 | 航空母艦 |
建造場所 | 造船船渠 |
基準排水量 ※1 | 17,150トン |
公試排水量 ※2 | 20,200トン |
水線長 | 223.0m |
最大幅 | 22.0m |
喫水 | 7.76m |
飛行甲板 | 長さ216.9×幅27m |
主缶 | ロ号艦本式水管缶(重油専焼)8基 |
主機 | 艦本式オール・ギヤードタービン4基、4軸 |
出力 | 104,000馬力 |
速力 | 32ノット |
燃料 | 重油:3,750トン |
航続力 | 18ノットで8,000浬 |
兵装 | 40口径八九式12.7cm連装高角砲6基 九六式25mm3連装機銃21基 九六式25mm単装機銃30基 12cm30連装噴進砲6基 |
装甲 | 舷側50mm 甲板25mm |
航空機 | 零式艦上戦闘機15機(常用機12機、補用機3機) 九七式艦上攻撃機20機(常用機18機、補用機2機) 九九式艦上爆撃機30機(常用機27機、補用機3機) |
乗員 | 1,500人 |
その他 | - |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
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1942年(昭和17年)12月8日 | 呉海軍工廠で起工。 |
1944年(昭和19年)1月19日 | 進水。 |
1944年(昭和19年)10月15日 | 竣工。 佐世保鎮守府籍に編入。 第三艦隊第一航空戦隊に編入。 内海西部で待機。 |
1944年(昭和19年)11月15日 | 連合艦隊付属第一航空戦隊に編入。 |
1945年(昭和20年)1月1日 | 第二艦隊第一航空戦隊に編入。 |
1945年(昭和20年)2月4日 | 呉海軍工廠に入渠。 |
1945年(昭和20年)2月10日 | 第一航空戦隊は解隊され、呉鎮守府部隊に編入。 |
1945年(昭和20年)3月18日 | 呉海軍工廠を出渠。 |
1945年(昭和20年)3月19日 | 呉付近でアメリカ艦載機と交戦、命中弾1発を受ける。 |
1945年(昭和20年)7月24日 | 呉付近でアメリカ艦載機と交戦、左舷中部に命中弾1発を受ける。 |
1945年(昭和20年)7月28日 | 呉付近でアメリカ艦載機と交戦、飛行甲板に命中弾2発を受けるが、航行可能な状態で終戦を迎える。 |
1945年(昭和20年)10月20日 | 除籍。 |
1946年(昭和21年)12月22日 | 日立造船桜島(大阪)で解体工事に着手。 |
1947年(昭和22年)11月30日 | 解体工事完了。 |
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