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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

蒼龍

蒼龍は昭和九年度海軍軍備補充計画(マル二計画)で建造された航空母艦である。 日本海軍は、最初の航空母艦「鳳翔」以来、「赤城」、「加賀」、「龍驤」と建造してきたが、ワシントン海軍軍縮条約により保有量を81,000トンに制限されており、既成艦の排水量を差し引いた12,630トンが残されていた。 このうち、「鳳翔」は条約で定められた廃棄代艦を建造できる対象であったため、実質的には21,000トンの建造量を有していた。

一方この時期、ロンドン海軍軍縮条約の規定による巡洋艦の保有割当分のうち25%を超えない範囲で、航空機発着甲板を装備できるとの条項に基づき、アメリカで航空巡洋艦の構想が生まれた。 これに対抗するために、昭和7年度(1932年度)に基本計画番号G6案と称される航空巡洋艦の計画がたてられた。 これは、公試排水量17,500トン、艦首へ20cm連装砲3基6門を装備し、航空機70機を搭載する計画であった。 昭和九年度海軍軍備補充計画(マル二計画)では、軍令部はこのG6案を発展させた、基準排水量10,050トン、20cm砲5門、12.7cm高角砲20門、艦上機100機の航空母艦2隻を要求した。 しかし、軍令部の要求では、10,050トンの基準排水量に収めるのは不可能であり、基本計画を15.5cm連装砲1基、三連装砲1基5門、12.7cm連装高角砲8基16門、航空機70機に改めた(蒼龍原案)。

蒼龍進水式
蒼龍進水式拝観券

1934年(昭和9年)初めには、呉工廠で1番艦「蒼龍」の建造準備に着手したが、同年3月に発生した友鶴事件の結果、本艦の設計も再点検され、最終的には主砲を搭載しない純粋な航空母艦としての計画に改められた。 紆余曲折があったものの、「蒼龍」は1934年(昭和9年)11月20日に呉海軍工廠で起工、1935年(昭和10年)12月23日には進水式を迎えた。 この進水式は、多数の参観者を得て愛国思想普及に役立てるため、各所招待券、入場券約10万枚を出し、当日の参観者は5万人を越える盛大なものとなった。

飛行甲板は長さ216.9m、幅26m、格納庫は上下2段で搭載機数は九六式艦上戦闘機12機(常用9機、補用3機)、九七式艦上攻撃機24機(常用18機、補用6機)、九六式艦上爆撃機24機(常用18機、補用3機)、九七式艦上偵察11機(常用8機、補用3機)の計71機であった。 高角砲は12.7cm連装高角砲を両舷に3基ずつ装備、25mm連装機銃は14基を装備した。 機関部はロ号艦本式水管缶(重油専焼)8基と艦本式オール・ギヤードタービン4基で152,000馬力を発揮、速力34.5ノットを得て、日本海軍で最高速の航空母艦となった。

竣工後、直ちに第二艦隊第二航空戦隊に編入され中国方面で行動した。 開戦初頭、ハワイ作戦に参加し、その帰途、ウエーキ島攻略作戦に協力した。その後は、アンボン攻撃、ポートダーウィン空襲、チラチャップ攻撃と南太平洋を転戦した。 1942年(昭和17年)4月のインド洋作戦では、他の空母とともにイギリス重巡洋艦「コーンウォール (Cornwall) 」、「ドーセットシャー (Dorsetshire)」、航空母艦「ハーミーズ (Hermes)」オーストラリア駆逐艦「ヴァンパイア(Vampire)」を撃沈した。 6月5日のミッドウェー海戦で、アメリカ海軍機の爆撃により3発被弾、搭載準備中の爆弾、魚雷が誘爆し沈没した。(1)(2)

艦名

艦名は瑞祥動物名(漢語)。 蒼は青で、青色の竜。 青竜に同じ。 青竜は四方をつかさどる天の四神の一で、東方の守護神であり瑞兆とされる。(3)

要目(4)(5)(6)

竣工時ミッドウェー海戦時
艦種航空母艦
建造場所造船船渠
基準排水量 ※115,900トン
公試排水量 ※218,800トン
全長227.50m
垂線間長206.52m
水線長222.0m
水線最大幅21.3m
喫水7.62m
飛行甲板長さ216.9×幅26.0m
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)8基
主機艦本式オール・ギヤードタービン4基、4軸
出力152,000馬力
速力34.5ノット
燃料重油:3,400トン
航続力18ノットで7,680浬
兵装40口径八九式12.7cm連装高角砲6基、九六式25mm連装機銃14基
装甲舷側35〜140mm、甲板40mm
航空機九六式艦上戦闘機12機(常用9機、補用3機)
九七式艦上攻撃機24機(常用18機、補用6機)
九六式艦上爆撃機24機(常用18機、補用3機)
九七式艦上偵察機11機(常用8機、補用3機)
零艦上戦闘機21機
九七式艦上攻撃機18機
九九式艦上爆撃機18機
零艦上戦闘機3機
二式艦上偵察機2機
乗員1,100人
その他-

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(7)

年月日履歴
1934年(昭和9年)11月20日呉海軍工廠で起工。
1935年(昭和10年)12月23日進水。
1937年(昭和12年)12月29日竣工。 横須賀鎮守府籍に編入。 第二艦隊第二航空戦隊に編入。
1938年(昭和13年)4月9日寺島水道発。 南支方面行動。
1938年(昭和13年)4月14日高雄着。
1938年(昭和13年)5月8日佐世保発。 中支、南支方面行動。
1938年(昭和13年)6月4日横須賀着。
1938年(昭和13年)10月9日馬公発。 南支方面行動。
1938年(昭和13年)11月14日高雄着。
1939年(昭和14年)3月21日佐世保発。 北支方面行動。
1939年(昭和14年)4月2日佐世保着。
1939年(昭和14年)10月31日横須賀発。 南支方面行動。
1940年(昭和15年)3月26日中城湾発。 南支方面行動。
1940年(昭和15年)4月2日基隆着。
1940年(昭和15年)5月1日横須賀着。
1940年(昭和15年)5月8日横須賀工廠入渠。
1940年(昭和15年)6月6日出渠。
1940年(昭和15年)6月8日館山に回航。
1940年(昭和15年)6月22日木更津に回航。
1940年(昭和15年)6月29日横須賀に回航。
1940年(昭和15年)7月5日館山に回航。
1940年(昭和15年)7月22日横須賀に回航。
1940年(昭和15年)7月24日横須賀発
1940年(昭和15年)7月29日函館着。
1940年(昭和15年)8月1日函館発。
1940年(昭和15年)8月5日伊勢湾着。
1940年(昭和15年)8月8日伊勢湾発。
1940年(昭和15年)8月10日佐伯湾着。
1940年(昭和15年)8月22日宿毛湾に回航。
1940年(昭和15年)8月27日別府に回航。
1940年(昭和15年)9月2日横須賀着。
1940年(昭和15年)9月13日横須賀工廠入渠。
1940年(昭和15年)10月1日出渠。
1940年(昭和15年)10月11日横浜沖特別観艦式に参加。
1940年(昭和15年)12月2日横須賀工廠入渠。
1940年(昭和15年)12月9日出渠。
1940年(昭和15年)12月17日館山に回航。
1940年(昭和15年)12月25日館山発。
1940年(昭和15年)12月29日有明湾着。
1941年(昭和16年)1月22日呉に回航。
1941年(昭和16年)1月26日呉発。 同日、岩国着。
1941年(昭和16年)2月1日岩国発。 台湾方面へ訓練に向かう。
1941年(昭和16年)2月3日訓練中に駆逐艦「夕月」と接触。
1941年(昭和16年)2月6日佐世保着。 修理。
1941年(昭和16年)2月18日佐世保発。
1941年(昭和16年)2月20日高雄着。
1941年(昭和16年)2月22日高雄発。
1941年(昭和16年)2月24日中城湾着。
1941年(昭和16年)2月26日中城湾発。
1941年(昭和16年)3月3日高雄着。
1941年(昭和16年)3月7日高雄発。
1941年(昭和16年)3月11日有明湾着。
1941年(昭和16年)3月24日有明湾発。
1941年(昭和16年)3月26日横須賀着。
1941年(昭和16年)4月10日第一航空艦隊第二航空戦隊に編入。
1941年(昭和16年)4月20日館山に回航。
1941年(昭和16年)5月17日館山発。
1941年(昭和16年)5月20日有明湾着。
1941年(昭和16年)6月21日有明湾発。
1941年(昭和16年)6月30日横須賀着。
1941年(昭和16年)7月10日横須賀発。 南部仏印進駐作戦に参加。
1941年(昭和16年)7月14日馬公着。 同日発。
1941年(昭和16年)7月16日三亜着。
1941年(昭和16年)7月24日三亜発。
1941年(昭和16年)7月30日サンジャック着。 同日発。
1941年(昭和16年)8月1日三亜着。 同日発。
1941年(昭和16年)8月7日佐世保着。
1945年(昭和20年)3月19日佐世保発。 九州方面行動。
1945年(昭和20年)4月6日横須賀着。
1945年(昭和20年)4月7日横須賀工廠入渠。
1945年(昭和20年)8月31日出渠。
1941年(昭和16年)10月24日横須賀発。
1941年(昭和16年)10月26日串木野着。
1941年(昭和16年)11月1日有明湾に回航。
1941年(昭和16年)11月4日有明湾発。
1941年(昭和16年)11月7日呉着。
1941年(昭和16年)11月13日呉発。
1941年(昭和16年)11月16日佐伯着。
1941年(昭和16年)11月18日佐伯発。
1941年(昭和16年)11月22日単冠湾着。
1941年(昭和16年)11月26日単冠湾発。
1941年(昭和16年)12月8日ハワイ作戦に参加。 第一波攻撃隊に九七式艦上攻撃機18機(爆装10機、雷装8機)、零式艦上戦闘機8機が参加。 第二波攻撃隊には九九式艦上爆撃機18機、零式艦上戦闘機9機が参加。 艦船3機、艦爆2機が未帰還となった。
1941年(昭和16年)12月21日ハワイ作戦の帰途、ウエーキ島攻略作戦に協力。 (23日まで)
1941年(昭和16年)12月29日呉着。 整備、補給。
1942年(昭和17年)1月11日柱島に回航。
1942年(昭和17年)1月12日柱島発。
1942年(昭和17年)1月17日パラオ着。
1942年(昭和17年)1月21日パラオ発。
1942年(昭和17年)1月23日〜24日アンボン攻撃。
1942年(昭和17年)1月25日ダバオ着。
1942年(昭和17年)1月27日ダバオ発。
1942年(昭和17年)1月28日パラオ着。
1942年(昭和17年)2月15日パラオ発。 ポートダーウィン攻撃に向かう。
1942年(昭和17年)2月19日ポートダーウィン攻撃。
1942年(昭和17年)2月21日スターリング湾着。
1942年(昭和17年)2月25日スターリング湾発。 ジャワ南方に向かう。
1942年(昭和17年)3月1日ジャワ南方で艦船攻撃。
1942年(昭和17年)3月5日ジャワ島チラチャップの在泊艦船攻撃。
1942年(昭和17年)3月7日クリスマス島攻撃。
1942年(昭和17年)3月11日スターリング湾着。
1942年(昭和17年)3月26日スターリング湾発。 セイロン島に向かう。
1942年(昭和17年)4月5日コロンボ在泊艦船攻撃。 他の空母とともにイギリス巡洋艦ドーセットシャーおよびコーンウォールを撃沈。
1942年(昭和17年)4月9日トリンコマリー在泊艦船攻撃。 他の空母とともにイギリス航空母艦航空母艦「ハーミーズ (Hermes)」、オーストラリア駆逐艦「ヴァンパイア(Vampire)」を撃沈。
1942年(昭和17年)4月22日呉着。
1942年(昭和17年)5月27日柱島発。
1942年(昭和17年)6月5日ミッドウェー作戦に参加。 アメリカ航空母艦機の爆撃により、被弾沈没。
1942年(昭和17年)8月10日除籍。

参考資料

  1. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 6巻 空母翔鶴・瑞鶴・蒼竜・飛竜・雲竜型・大鳳.東京,光人社,1996,p98-101
  2. 呉日報社編.大呉市民史 昭和篇 上巻.呉,呉日報社編,1965.p709
  3. 大辞林 第三版(オンライン版)
  4. 日本航空母艦史.東京,海人社,1994,p40,世界の艦船.No481 1994/5増刊号 増刊第40集
  5. 軍艦メカ2日本の空母.東京,光人社,1986,p80-82,丸10月増刊号
  6. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p43
  7. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 6巻 空母翔鶴・瑞鶴・蒼竜・飛竜・雲竜型・大鳳.p86

謝辞

アイコンはkiyochan様の「アイコン&お絵描き工房」より、ご提供頂いた。