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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

輸送艦 第1号型

海洋に囲まれた日本は、外征の場合には陸上兵力の洋上輸送が必要であり、このため日本陸軍は戦前より、大発動艇(上陸用舟艇)や神州丸(揚陸艦)の様な上陸作戦支援艦艇を整備していた。 日本海軍においても、旧式駆逐艦を転用した哨戒艇の艦尾にスリップ・ウェイを設けて、大発を発進させる機能を持たせ、緒戦の島嶼攻略戦に使用した、 1942年(昭和17年)8月に始まったガダルカナル戦では敵制空権下での兵員物資輸送が実施された。 これは、夜間に駆逐艦などの高速艦艇で突入し、夜明けまでに敵制空権外に脱出する任務であり、多くの駆逐艦を喪失することとなった。 このような背景から、高速大量輸送ができる輸送専門の艦艇が要求され、1943年(昭和18年)中期ごろに軍令部より2種の輸送艦の計画要求があり、これにより出現したのが第一号型輸送艦(一等輸送艦)および第百一号型輸送艦(二等輸送艦)である。

第一号型輸送艦の当初案では、松型駆逐艦を1軸にして、空いたスペースを船倉として物件搭載にあてようとしたものであったが、新しい艦を計画したほうが得策であるとされ、新規計画となった。 設計にあたっては、戦時急造に適するように簡易化につとめ、兵装や艤装も最低限にとどめられた。 また、船体線図も簡易型が採用され、ブロック建造方式に適するように考慮されて、電気溶接が大幅に使用された。 本型は艦尾にスリップ・ウェイを設けて、ここから兵員物資を搭載した大発を発進させる仕組みで、このための喫水調整用タンクや注排水装置を有した。 搭載できるのは14m大発4隻、補給物件260トンであった。 兵装は12.7cm連装高角砲1基、25mm3連装機銃15挺(後に増強)、爆雷18個を搭載した。

第一号型輸送艦は46隻が計画され、21隻が完成し、16隻が戦没した。 竣工後に充分な訓練が行われないまま南方方面の輸送作戦に投入され、その多くが極めて短期間に失なわれた。  第九号輸送艦はレイテ方面、小笠原方面の輸送任務を生き抜き、戦後は復員輸送や捕鯨母船任務に従事した。(1)(2)

要目(3)(4)

竣工時
艦種一等輸送艦
基準排水量 ※11,500トン
公試排水量 ※21,800トン
垂線間長89.00m
水線長94.00m
最大幅10.20m
喫水3.60m
主缶ホ号艦本式水管缶(重油専焼)2基
主機艦本式オール・ギヤード蒸気タービン1基、1軸
出力9,500馬力
速力22ノット
燃料重油:415トン
航続力18ノットで3,700浬
兵装40口径八九式12.7cm連装高角砲1基 九六式25mm3連装機銃3基
九六式25mm連装機銃1基
九六式25mm単装機銃4基
二式爆雷18個
搭載能力貨物260トン
乗員148人
その他計画値

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

履歴(5)(6)

年月日履歴
1944年(昭和19年)5月28日起工。
1944年(昭和19年)3月15日第九号輸送艦と命名。
1944年(昭和19年)7月15日進水。 佐世保鎮守府籍に入籍。
1944年(昭和19年)9月20日竣工。
1944年(昭和19年)9月25日第一輸送戦隊に編入。 連合艦隊付属。
1944年(昭和19年)9月27日呉発。 内海西部で訓練。
1944年(昭和19年)10月2日佐世保着。
1944年(昭和19年)10月15日佐世保発。 比島方面へ向う。
1944年(昭和19年)10月23日レイテ島増援輸送を下令される。
1944年(昭和19年)10月24日陸軍部隊350名の輸送を下令される。 ミンダナオ島カガヤン着。 陸兵収容。
1944年(昭和19年)10月25日ミンダナオ島発。
1944年(昭和19年)10月26日レイテ島オルモック湾着。 陸兵揚陸。 オルモック発。 ヒントトロ海峡(パナイ島とマスバテ島の間)において二等巡洋艦「鬼怒」と駆逐艦「浦波」を救援後マニラに向う。
1944年(昭和19年)10月27日マニラ着。 待機。
1944年(昭和19年)10月31日第四船団3隻とマニラ発。 レイテ島オルモックに向う。
1944年(昭和19年)11月1日オルモック着。 揚陸待機。 オルモック発。 セブ島リロアンで陸軍第三十五軍司令部を収容、オルモックに向う。 第三十五軍司令部を揚陸後、パナイ島北東方に向う。
1944年(昭和19年)11月3日第百三十一輸送艦の遭難現場に到着。 曳航してマニラに向う。
1944年(昭和19年)11月4日レイテ島陸軍軍需品輸送を下令される。
1944年(昭和19年)11月5日キャビテ着。 待機。
1944年(昭和19年)11月8日第四船団3隻、駆逐艦「竹」とマニラ発。 レイテ島オルモックに向う。
1944年(昭和19年)11月9日オルモック着。 陸軍第一師団の一部と大発2隻揚陸。 
1944年(昭和19年)11月10日オルモック発。 マニラへ向う。
1944年(昭和19年)11月11日ボンドク半島南西端で座礁した「せれべす丸」から人員兵器を移載してマニラ着。 待機。
1944年(昭和19年)11月24日多号作戦第五次第二梯団の輸送艦3隻、駆逐艦「竹」とともにマニラ発。
1944年(昭和19年)11月25日マリンドゥケ島パラナカン湾に昼間避泊中、アメリカ空母機の攻撃により損傷を受けるが。「竹」とともにオルモックに向う。
1944年(昭和19年)11月26日損傷が大きいため、マニラ帰投を命ぜられ反転。
1944年(昭和19年)11月28日マニラ着。 第七次多号作戦部隊第三梯団に部署され、レイテ島補給輸送を下命される。
1944年(昭和19年)12月2日本艦と「竹」の第三梯団および「桑」と二等輸送艦2隻の第四梯団は、マニラ発。 オルモック着。 揚陸作業後、アメリカ駆逐艦3隻、魚雷艇4隻が来襲。 交戦の結果、「桑」沈没と引き換えに、「クーパー(Cooper)」を撃沈、「アレン・M・サムナー(Allen M. Sumner)」を撃破し、敵部隊を撃退した。
1944年(昭和19年)12月3日オルモック発。 マニラへ向う。
1944年(昭和19年)12月4日マニラ着。 待機。
1944年(昭和19年)12月香港に向けマニラ発。
1945年(昭和20年)1月9日香港着。
1945年(昭和20年)1月11日香港発。
1945年(昭和20年)1月16日佐世保着。
1945年(昭和20年)1月19日佐世保発。
1945年(昭和20年)1月21日呉着。 待機。 入渠修理。
1945年(昭和20年)2月18日呉発。
1945年(昭和20年)2月21日横須賀着。
1945年(昭和20年)2月28日横須賀発。 輸送任務。 行動先不明。
1945年(昭和20年)3月3日横浜着。
1945年(昭和20年)3月8日横須賀発。 八丈島着。 待機。
1945年(昭和20年)3月13日八丈島発。 横浜着。 待機。
1945年(昭和20年)3月17日横須賀発。 輸送任務。 行動先不明。
1945年(昭和20年)3月21日横須賀着。 待機。
1945年(昭和20年)3月28日横須賀発。 輸送任務。 行動先不明。
1945年(昭和20年)3月30日横浜着。
1945年(昭和20年)4月1日第一輸送戦隊は解隊。 連合艦隊付属。
1945年(昭和20年)4月27日横須賀発。 輸送任務。 行動先不明。
1945年(昭和20年)4月30日横須賀着。 待機。
1945年(昭和20年)5月10日横須賀発。 輸送任務。 行動先不明。
1945年(昭和20年)5月12日横須賀着。 待機。
1945年(昭和20年)5月25日横須賀発。 輸送任務。 行動先不明。
1945年(昭和20年)6月5日横須賀着。 待機。
1945年(昭和20年)6月21日横須賀発。 輸送任務。 行動先不明。
1945年(昭和20年)7月21日横須賀着。 待機。
1945年(昭和20年)7月25日横須賀発。
1945年(昭和20年)7月26日横須賀着。 待機。
1945年(昭和20年)8月11日横須賀発。
1945年(昭和20年)8月14日呉着。 待機。
1945年(昭和20年)8月23日呉発。
1945年(昭和20年)8月24日横須賀着。
1945年(昭和20年)9月15日除籍。
1945年(昭和20年)12月1日特別輸送艦に指定。
1945年(昭和20年)12月20日輸第9号と呼称変更。 一時、捕鯨母船として使用。 賠償艦としてアメリカに引渡。
1948年(昭和23年)6月26日石川島重工業で解体完了。

参考資料

  1. 雑誌「丸」編集部編.写真日本の軍艦 13巻 小艦艇.東京,光人社,1990,p248-250
  2. 日本海軍特務艦船史.東京,海人社,1997,p150,世界の艦船.No522 1997/3増刊号 増刊第47集
  3. 前掲.日本海軍特務艦船史.p106
  4. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p54
  5. 渡辺博史.艦隊決戦の幻影 主力部隊(七).自家本,2015,p275-277
  6. 前掲.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.p25

謝辞

アイコンはkiyochan様の「アイコン&お絵描き工房」より、ご提供頂いた。