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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

乙型

伊号第十五潜水艦は巡潜乙型(伊十五型)潜水艦の1番艦である。

日本の潜水艦は大正末期から、艦隊に随伴して敵艦隊の索敵、追躡(ついじょう:後から追うこと。追跡。)、漸減にあたる高速力の海大型(海軍式大型)潜水艦と、長駆敵泊地近くに進出し敵艦隊の動向見張り、追躡にあたる巡潜型(巡洋潜水艦)とに分かれて発達してきた。 巡洋潜水艦として最初に建造された巡潜一型は、ドイツの潜水艦技術を取り入れるため、ドイツのゲルマニア社の元潜水艦開発部長テッヘル博士他の技術者を招聘し、その指導下で建造された。 兵装を日本式に改めた以外はドイツのU142型の設計を踏襲し、燃料搭載量を増加し航続力をオリジナルの10ノットで18,000浬から24,400浬に延伸している。 また、最終艦の伊号第五潜水艦では小型水上偵察機1機を搭載した

次級の巡潜二型では、機関出力の増大により水上速力を21ノットに引き上げた。 航空兵装は射出機と小型水上偵察機1機を搭載した。 巡潜三型は潜水戦隊旗艦とするため居住性と通信能力の強化などがなされ、10,000馬力の機関により、海大型に匹敵する水上速力23ノットを得た。 魚雷発射管は艦尾装備を廃止し艦首に6門装備、航空兵装は後甲板に格納筒2基、射出機1機を装備し、水上偵察機1機を搭載した。

無条約時代に突入した1937年(昭和12年)度の第三次補充計画では巡潜三型の発展型として3種類の巡潜型潜水艦が計画された。 甲型は潜水戦隊司令部設備を持ち、水上偵察機を搭載したもっとも大型の巡潜である。 航空兵装は射出機1機を前甲板に装備し、水上偵察機1機を搭載した。 乙型は甲型から潜水戦隊旗艦設備を除いた形式で、若干小形となっている。 航空兵装は甲型と同一である。 丙型航空兵装を持たず、魚雷発射管の数を2門増やし8門とし、魚雷搭載数を20本に増やし魚雷兵装を強化した形式である 丙型は建造を急ぐため巡潜三型の線図を流用した。 これら3種類の巡潜は水上速力23ノットを超え、海大型に匹敵する機動力を得て、ここに海大型は巡潜型に統合されることとなった。

乙型はマル三(○の中に三)計画の6隻が開戦までに完成、マル四(○の中に四)計画の14隻のうち1隻が開戦までに完成、13隻が建造中であった。 開戦後のマル急(○の中に急)計画で6隻計画されたが、この6隻は乙型の改型で量産のため主機を巡潜三型と同じ艦本式一号甲十型ディーゼル2基とした。 機関出力が若干低下したが、水上速力は0.1ノットの低下にとどまっている。 なお、兵装は変化していない。

当初の計画では、艦隊決戦において、甲型が子隊の乙型、丙型、海大型を率いて長駆ハワイ近海まで進出し、出撃してくるアメリカ艦隊の索敵、追躡、漸減にあたることになっていたが、開戦後にそのような状況は生起しなかった。(1)

要目(2)(3)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型乙型(伊十五型)
水上排水量 ※12,198トン(基準)/2,584トン(常備)
水中排水量 ※13,654トン
垂線間長102.40m
全長108.70m
最大幅9.30m
喫水5.14m
主機艦本式二号十型ディーゼル2基、2軸
主電動機特五型2基
蓄電池二号五型×240個
出力12,400馬力(水上)/2,000馬力(水中)
速力23.6ノット(水上)/8ノット(水中)
燃料重油:774トン
航続力16ノットで14,000浬(水上)/3ノットで96浬(水中)
乗員94名
兵装40口径十一年式14cm単装砲1基
九六式25mm連装機銃1基
九五式53cm魚雷発射管6門(艦首)
九五式魚雷17本
射出機呉式一号四型1基
航空機水上偵察機1機
安全潜航深度100m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(4)(5)

年月日履歴
1938年(昭和13年)1月25日起工。
1939年(昭和14年)1月20日伊号第十五潜水艦と命名。
1939年(昭和14年)3月7日進水。
1940年(昭和15年)9月30日竣工。 本籍を横須賀鎮守府籍と定める。 練習潜水艦と定め、呉鎮守府部隊に編入。 練習のことに関しては、海軍潜水学校長の指揮を受けることと定める。
1940年(昭和15年)11月15日第一潜水隊(第一潜水戦隊・第六艦隊)に編入。 練習潜水艦を予備潜水艦に改める。 練習のことに関して、海軍潜水学校長を受けることと定めたのを解く。 司令は司令潜水艦を当艦に指定される。司令は司令潜水艦を当艦に指定される。 
1941年(昭和16年)2月2日第一潜水隊は、高知沖発、南洋方面に向かう。 訓練。
1941年(昭和16年)3月3日第一潜水隊は、高雄着。
1941年(昭和16年)5月24日第一潜水隊は知多湾発、南洋方面に向かう。 訓練。
1941年(昭和16年)6月26日第一潜水隊は有明湾に帰着。
1941年(昭和16年)8月9日司令潜水艦を当艦から伊第十七潜水艦に変更。
1941年(昭和16年)9月1日連合艦隊は戦時編制。
1941年(昭和16年)9月9日司令潜水艦を伊第十七潜水艦から当艦に変更。
1941年(昭和16年)11月5日第一潜水戦隊は、先遣部隊(第六艦隊)に編入。 機動部隊の作戦に協力、オアフ島北東海面において、機動部隊の援護、敵出撃部隊の邀撃を下令される。
1941年(昭和16年)11月15日先遣部隊は、横須賀在泊の旗艦「香取」艦上で、作戦打ち合わせ。
1941年(昭和16年)11月21日横須賀発。 ハワイ方面に向かう。
1941年(昭和16年)11月27日ハワイの600浬圏内に入る。
1941年(昭和16年)12月2日開戦は12月8日と下令される。
1941年(昭和16年)12月3日先遣部隊は、ハワイの300浬圏内に入り、秘密裏にオアフ島北東に向かう。
1941年(昭和16年)12月7日オアフ島北東の配備点に到着。 待機。
1941年(昭和16年)12月8日先遣部隊は機動部隊のハワイ攻撃を援護、索敵を開始。
1941年(昭和16年)12月10日第一潜水部隊は、機動部隊のハワイ攻撃に伴い、出撃する敵艦隊を邀撃のため、11日朝までに、カウアイ島南方に移動散開を下令されたが、その直後、アメリカ航空母艦「レキシントン」が、オアフ島東方からアメリカ本土に向かうのが発見され、部隊はその追撃を下令され、東航。
1941年(昭和16年)12月13日先遣部隊(第六艦隊)先遣支隊(第一潜水戦隊)に編入、アメリカ西岸において敵海上交通破壊を下令される。 先遣支隊とアメリカ空母を追撃して、アメリカ西岸に向かう。
1941年(昭和16年)12月19日サンフランシスコ沖に到着。 監視配備につく。
1941年(昭和16年)12月24日アメリカ西岸を撤収。 クェゼリンに向かう。
1941年(昭和16年)12月25日帰途に、ジョンストン島の砲撃を下令される。
1942年(昭和17年)1月1日先遣支隊とハワイ東方を帰航中、真珠湾の西南西100浬においてアメリカ航空母艦が発見され、ジョンストン島の砲撃を取り止め、支隊と同島南方の索敵掃航を下令される。
1942年(昭和17年)1月2日この敵に向かい集中の途中、伊号第十七潜水艦がハワイ東方500浬において、敵輸送船団を発見、隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、この船団の追跡を下令される。
1942年(昭和17年)1月4日隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、敵船団を捕捉できず、クェゼリンに向かう。
1942年(昭和17年)1月11日クェゼリン着。 補給休養。先遣部隊先遣支隊は編成を解かれる。 先遣部隊第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、次期作戦準備を下令される。
1942年(昭和17年)1月27日クェゼリンにおいて、飛行機に対する給油装置の設備工事を実施したのち、二式飛行艇とK作戦(飛行艇によるハワイ攻撃)の連合訓練を下令される。
1942年(昭和17年)2月1日第一潜水隊から除かれ、第二潜水隊(第一潜水戦隊・第六艦隊)に編入される。 司令潜水艦を伊十九から当艦に変更。 クェゼリン泊地は早朝、アメリカ機動部隊の爆撃を受け、錨泊沈座したのち、第一潜水部隊と急遽出撃、ウォッゼ方面に向かい、索敵掃航。
1942年(昭和17年)2月2日第一潜水部隊とハワイ方面に向かい、アメリカ機動部隊の追撃を下令される。
1942年(昭和17年)2月3日クェゼリンに帰投。 既令の工事を下令され、解列して帰航。
1942年(昭和17年)2月5日クェゼリン着。 改装工事に当たる。
1942年(昭和17年)2月14日改装工事を終わり、飛行艇との連合訓練に当たる。
1942年(昭和17年)2月20日飛行艇との連合訓練に当たる。 隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、クェゼリン発。 ラバウル東方に出現したアメリカ機動部隊の索敵に向かう。 K作戦の予定に拘りなくと指示される。
1942年(昭和17年)2月21日第一潜水戦隊司令官は、隊主力ほかを、速やかにハワイ方面に進出せしめることを可とすると意見を具申。
1942年(昭和17年)2月22日隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、ヤルート南方から、マーシャル諸島東方を経て、K作戦計画に応じるよう行動を下令され、転針進航。
1942年(昭和17年)2月24日アメリカ機動部隊のウェーク島来襲により、隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、フレンチフリゲート礁西方に配備、待敵を下令される。 第二潜水隊司令の意見具申により、K作戦は3月4日に延期される。
1942年(昭和17年)3月3日隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、フレンチフリゲート礁外方哨区に到着。
1942年(昭和17年)3月4日隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、13:50、フレンチフリゲート礁内に入り、二式飛行艇に給油をおこなったのち、離脱して、横須賀に向かう。 隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、僚艦2隻とともに、南鳥島に来襲したアメリカ機動部隊の索敵掃航に当たりながら、帰航を下令される。
1942年(昭和17年)3月10日対米艦隊作戦第三法を下令される。
1942年(昭和17年)3月13日隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、先遣部隊哨戒潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入。 アメリカ機動部隊邀撃のため、M散開線(東経160度)に配備を下令される。
1942年(昭和17年)3月16日隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、僚艦2隻とともにM散開線に到着。 索敵。
1942年(昭和17年)3月17日6:00、撤収して横須賀に帰投を下令される。 帰航。
1942年(昭和17年)3月18日先遣部隊哨戒潜水部隊は編成を解かれる。隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、先遣部隊第一潜水部隊に復帰、次期作戦準備を下令される。
1942年(昭和17年)3月21日隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、横須賀に帰着。 整備休養。
1942年(昭和17年)4月18日アメリカ機動部隊が本州に来襲。対米艦隊作戦第三法を下令される。 部隊は急速出撃準備を下令される、準備の完成は23日の予定。
1942年(昭和17年)4月19日部隊の急速出撃準備は、取り止めとなる。
1942年(昭和17年)4月20日対米艦隊作戦第三法止めを下令される。
1942年(昭和17年)5月8日第一潜水戦隊は、先遣部隊(第六艦隊)から除かれ、北方部隊(第五艦隊)に編入、アリューシャン列島要地攻略作戦の支援を下令される。
1942年(昭和17年)5月11日司令潜水艦を伊号第十九潜水艦から当艦に変更。
1942年(昭和17年)5月15日第一潜水戦隊は、横須賀発。 大湊に向かう。
1942年(昭和17年)5月17日大湊着。 補給待機。
1942年(昭和17年)5月19日第二潜水隊は、大湊発。 アリューシャン列島方面に向かう。
1942年(昭和17年)5月20日第一潜水戦隊は、北方部隊(第五艦隊)潜水部隊(第一潜水戦隊)に部署され、アリューシャン列島要地偵察、第二機動部隊の掩護を下令される。
1942年(昭和17年)5月25日隊主力(当艦)は、アダック島沖に進出、カナガ湾の偵察に当たる。
1942年(昭和17年)5月27日隊主力(当艦)は、アダック島沖から、D散開線(北緯43〜46度、東経177度)に配備を下令され、移動。
1942年(昭和17年)5月27日隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、部隊とD散開線につき、第二機動部隊の東方300浬付近の前路および側方の警戒に当たる。
1942年(昭和17年)5月31日隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、部隊とD散開線から東進し、E散開線(西経168度)に向かう。
1942年(昭和17年)6月2日隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、部隊とE散開線に到着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)6月3日隊主力(当艦、伊号第十七潜水艦)は、E散開線から、北東のF散開線(北緯50〜53度、西経165度)に向かう。
1942年(昭和17年)6月5日第一潜水戦隊は、北方部隊(第五艦隊)から除かれ、先遣部隊に復帰を下令される(GF電令作第156号)が、同日中に再び、北方部隊に編入を下令される。
1942年(昭和17年)6月6日第一潜水戦隊の先遣部隊への復帰は、6月30日と下令される。 隊主力(当艦、伊号第十九潜水艦)は、アダック島北方のI散開線(西経177度)に配備を下令され、移動。
1942年(昭和17年)6月7日隊主力(当艦、伊号第十九潜水艦)は、I散開線に到着、索敵哨戒。 当艦は哨戒中に敵機の爆撃を受けた。
1942年(昭和17年)6月10日隊主力(当艦)は、ダッチハーバー方面の偵察を下令される。
1942年(昭和17年)6月11日隊主力(当艦)は、I散開線からダッチハーバー方面に向かう。
1942年(昭和17年)6月15日隊主力(当艦)は、ダッチハーバー沖に進出。 監視にあたる。
1942年(昭和17年)6月19日隊主力(当艦)は、ウラナスカ湾を潜航偵察。
1942年(昭和17年)6月29日第二潜水隊は部隊と撤収して、アダック島南方の配備(北緯42〜43度)につくように下令され、移動。
1942年(昭和17年)6月30日第一潜水戦隊は北方部隊(第五艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に復帰。 内地に帰投、次期作戦準備を下令される。
1942年(昭和17年)7月3日第二潜水隊は第一潜水部隊とアダック島南方の配備に到着したのち、引き続き、索敵掃航により、横須賀に向かう。
1942年(昭和17年)7月11日第二潜水隊は横須賀に帰投。 整備休養。 第一潜水部隊は8月中旬頃、インド洋方面の作戦を予定される。
1942年(昭和17年)8月8日第一潜水部隊はアメリカ軍のソロモン反抗開始により、急速出撃準備を15日までに完成し、南東方面部隊の作戦支援を下令される。
1942年(昭和17年)8月10日司令潜水艦を当艦から伊号第十九潜水艦に変更。
1942年(昭和17年)8月12日元山航空隊機が、本州東方海上にアメリカ軍の不時着水偵を発見。 アメリカ機動部隊を警戒のため、第一潜水部隊は急速出撃を下令される。
1942年(昭和17年)8月15日部隊と横須賀発。 東京湾東方を索敵掃航ののち、夕刻、東進の中止を下令され、ソロモン諸島方面に向かい、南下。
1942年(昭和17年)8月20日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、部隊とスチュワート諸島南東方のA散開線(南緯7度40分、東経165度〜南緯9度40分東経163度20分)に配備を下令される。
1942年(昭和17年)8月23日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、部隊とサンクリストバル島南東方のC散開線(南緯10度40分東経164度〜南緯12度40分東経162度20分)に配備を下令され、配備の移動にあたる。 
1942年(昭和17年)8月24日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、部隊と16:50、E1散開線(南緯9度20分、東経163度20分)の配備に急行を下令され、配備の移動にあたる。 当艦は22:45、南緯10度45分、東経164度32分において、アメリカ機動部隊を発見。 追跡触接を下令され、水上航行で触接に努めたが、攻撃の機会がなく、24:00、190度に見失う。
1942年(昭和17年)8月25日隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、部隊と追撃にあたったが、先遣部隊指揮官は、戦場整理のため、日没に至るも敵情を得ない場合には、E2散開線(南緯10度10分、東経154度40分〜南緯12度40分、東経163度20分)に配備を下令され、移動にあたる。 6:50、航空母艦1、戦艦1を含む敵部隊の南下を発見した。
1942年(昭和17年)8月26日南東方面海域の現地潜水部隊の統一指揮官は、第一潜水戦隊司令官から第三潜水戦隊司令官となる。 旗艦潜水艦の被爆損傷のため。
1942年(昭和17年)8月27日第一潜水部隊とE2散開線に到着、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)8月28日2100、E2散開線の南緯11度28分。東経163度55度において、南下中の敵機動部隊を発見、追跡攻撃を図ったが、22:00敵駆逐艦の制圧を受け見失った。 僚艦2隻と、極力敵の前程に出て、攻撃を下令されたが、敵を発見できなかった。
1942年(昭和17年)8月29日第一潜水部隊とE2散開線に戻り、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)8月31日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊とG散開線(南緯10度8分、東経164度52分〜南緯10度40分、東経164度)に配備を下令される。
1942年(昭和17年)9月4日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊とG1散開線に配備の変更を下令され、60浬南下して移動。
1942年(昭和17年)9月6日南東方面海域の現地潜水部隊の統一指揮官は、第三潜水戦隊司令官から第一潜水戦隊司令官となる。 旗艦潜水艦を変更して進出。 第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊とG2散開線に配備の変更を下令され、更に60浬南下して移動。
1942年(昭和17年)9月8日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊とI散開線(南緯11度10分、東経164度22分〜南緯12度20分、東経162度)に配備の変更を下令され、移動。
1942年(昭和17年)9月9日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊とI散開線に到着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)9月13日索敵機がツラギの123度345浬に、敵機動部隊を発見と報告。 第二潜水隊(伊二十五欠)は、14日0200までに、K散開線(南緯11度40分、東経165度40分〜南緯13度、東経163度20分)に配備を下令され、移動。
1942年(昭和17年)9月15日第一潜水部隊は、先遣部隊第二監視部隊(第一潜水戦隊司令官指揮)に編入され、インディスペンサブル海峡南方(南緯10度30分、東経161度30分〜南緯11度10分、東経160度30分)に配備、ガダルカナル島に対する敵の増援遮断を下令される。 18:00、南緯12度25分、東経163度45分において、アメリカ航空母艦が沈没するのを視認。
1942年(昭和17年)9月16日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、部隊と、Y日(19日の予定)の航空撃滅戦に策応して、ソロモン諸島南東海域の索敵掃航を下令される。 隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、部隊と、インディスペンサブル海峡南方の配備につき、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)9月18日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、部隊と南下、索敵掃航
1942年(昭和17年)9月20日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、日進による輸送作戦の中止により、補給整備のため、約一週間の予定で、トラックに帰投を下令される。 隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊と、インディスペンサブル海峡南方の配備に復帰したのち、解列してトラックに向かう。
1942年(昭和17年)9月25日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、トラック着。 補給整備。
1942年(昭和17年)10月4日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、先遣部隊直率潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の指揮下に、南太平洋方面の要地偵察ほかを下令される。 トラック発、ショートランドに向かう。
1942年(昭和17年)10月8日X-3日からX+1日まで、インディスペンサブル礁において、第十一航空戦隊水上偵察機の基地任務をおこない、終わってニューカレドニア島ヌーメアの偵察を下令される。 ショートランドに寄港、インディスペンサブル礁に向かう。
1942年(昭和17年)10月12日インディスペンサブル礁に進出、中央礁において待機。 6:55、中型機1を発見。 第十一航空戦隊水上偵察機の進出は延期となる。
1942年(昭和17年)10月16日R方面航空部隊の水上偵察機に対する補給任務を、Y-3日まで実施するよう下令され、18日まで、その任務に当たる。
1942年(昭和17年)10月18日先遣部隊乙潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、インディスペンサブル礁南西方のK散開線に配備を下令される。 伊号第二十潜水艦と交替、インディスペンサブル礁から、K散開線に向かう。 17:51ケセヨに進出。
1942年(昭和17年)10月19日K散開線に進出、乙潜水部隊と合同。索敵哨戒。 乙潜水部隊は、Y日(22日の予定)ガダルカナル島総攻撃に応じ、Y-日零時から南東方に掃航。 戊散開線(南緯18度30分、東経160度10分〜南緯18度10分、東経162度10分)に到達するように下令される。
1942年(昭和17年)10月20日Y日は22日と予定を下令される。
1942年(昭和17年)10月21日Y日を23日に改める。 部隊と零時、南東方に掃航、戊散開線に向かったが、Y日の一日延期により、戊散開線到着を一日遅らせ、L散開線において待機、22日黎明時以降、南東方に掃航を下令される。
1942年(昭和17年)10月22日R方面航空部隊の哨戒機は、南緯12度55分、東経161度12分において、戦艦基幹の敵艦を発見したため、12:30、乙潜水部隊はM散開線に配備、Y日黎明時まで待敵を下令される。
1942年(昭和17年)10月23日Y日は、更に一日延期と下令される。 第一潜水部隊と零時、南東方に掃航、戊散開線に向かったが、Y日の再延期により、途中の散開線に留まり、待敵。
1942年(昭和17年)10月24日第一潜水部隊と零時、南東方に掃航。 ニューカレドニア島北端ヒューオン島西方の戊散開線に向かう。
1942年(昭和17年)10月25日敵艦隊は、26日、ガダルカナル島南東海面に出現の公算大と判断され、乙潜水部隊はインディスペンサブル礁南方のY散開線に配備を下令される。 部隊と反転、北上。
1942年(昭和17年)10月26日乙潜水部隊はインディスペンサブル礁西方の敵戦艦を攻撃のため、11:42、230度方向に水上進撃を下令される。 部隊と18:15以降に水上進撃に入ったため、敵機動部隊の追撃が遅れた。 乙潜水部隊は、16:25、O散開線(ツヒウ00〜ツメウ00)において待敵を下令される。
1942年(昭和17年)10月27日0:50、南緯15度05分、東経159度45分において、敵大部隊を発見。 乙潜水部隊は、敵はヌーメアに帰投するものと判断し、追跡にあたったが発見できなかった。 6:30触接を失う。 針路120度、速力16節と報告。
1942年(昭和17年)10月28日当艦と、乙潜水部隊の伊号第二十一潜水艦、伊号第二十四潜水艦の行動は、以後不明。
1942年(昭和17年)10月31日乙潜水部隊と、以降、サンクリストバル島南西海面に散開待機、ガダルカナル島に対する敵の増援阻止を下令される。 サンクリストバル島南西海面に進出、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)11月3日17:10以降、連絡がなく、消息を絶つ。
1942年(昭和17年)11月10日敵部隊と交戦、沈没したと推定される。
1942年(昭和17年)12月5日ガダルカナル島方面で亡失認定。
1942年(昭和17年)12月24日除籍。

謝辞

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参考資料

  1. 日本海軍艦艇写真集 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p8-12,120-124
  2. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p64,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  3. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p53
  4. 前掲.日本海軍艦艇写真集 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.p132
  5. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編 3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p553-560